マックス・ヴェーバー『職業としての政治』と現代日本(4) | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

 因みに、ヴェーバーは、『職業としての政治』の前半で、「職業としての政治家」を存在させるための基本的な条件について述べている。これは極めて当たり前の指摘である。

 

*           *          *

 (経済的な意味で)もっぱら政治のために生き、政治によって生きていない人たちが国家や政党を指導するというのは、どうしても、政治的指導層が「金権政治的」に構成されることを意味します。・・・(中略)・・・つまり、政治関係者(指導者とその部下)が非金権政治的に構成されるためには、政治という仕事によって定期的で確実な収入が与えられる、という平凡な前提が必要である、ということなのです。

 政治が「名誉職」として行われる場合には、いわゆる「独立」している人たち、つまり、資産家—特に利子生活者—によって政治が行われます。反対に、政治的指導が財産のない人々にも行ない得ることがありますが、この場合は、その人たちは報酬を受けねばなりません。」(182〜183p)

*       *       *

 「隣に蔵が建てば、腹が立つ」と言うように、現代の大衆民主主義は、「欲望民主主義」、「嫉妬民主主義」という側面を持っている。それだけに政治家が、仕事の対価として支給されている報酬を削減すると宣言すると、大いに人気取りになり、集票高価は増す。

 しかし、それは資産のない有能の士を政治から遠ざけ、金権政治に道を譲る危険性をはらんでいる。マスコミの影響で、選挙が人気投票になりがちな今日、政治家の質の劣化は周知の事実である。この傾向をさらに進めるような行動は、政治家も慎まなければならないし、有権者もそれを喝采するような愚は避けねばならない。

 日本を、資産だけあって能力のない政治家のみが支配していく国に堕落させてよいのであろうか。