東大駒場改革(1988年)挫折の顛末 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 当時東京外大の助手だった中沢新一を東大教養学部の助教授に採用するために、1988年、西部邁を中心として村上泰亮、公文俊平、佐藤誠三郎教授や私らが正規の手続きを完了した。しかし、中沢が異色の人材であったためか、駒場村の住民たち(どうしようもない教授たち)は反発し、ルール違反の人事転覆をしてしまった。

 これに抗議して、まず村上、公文教授が辞任し、次いで西部教授も辞めた。その後、駒場に残った私に対して、「反改革派」陣営から、人事などで執拗な嫌がらせがあり、私も翌年6月に辞表を提出した。

 この背景には、中沢人事以外にも、「相関社会学科」という多くの学問分野を統合しようという大きな改革があり、守旧派はそれへの反発も強めていたのである。

 この30年前の騒動の顛末は、西部が、『学者、この喜劇的なるもの』(草思社、1989年)という本に書いている。私が辞任した時期が1年後であることから、「舛添はこの改革とは関係ない」などとコメントする無知な者(何でもかんでも、舛添攻撃することが趣味らしい卑劣な輩たち)もいるが、この本の169ページに西部が記している。

 「3月17日、いよいよ教授会の日である。昼間の科会では、舛添助教授と松原助教授が連名で、中沢人事の正当性を主張しつつ、平野教授らによる反佐藤の動きを批判する文書が提出されたが、・・・」

 そして、1週間後の3月24日の臨時教授会での様子を、西部はこう書く(179P)。

「上野教授:社会科学科は分裂しているんじゃありませんか。『この人事をチェックせよ』という回状も回っていましたし。

 舛添助教授:今の発言は聞き捨てなりません。その回状とかについてもっと詳しく説明してください。われわれはそういうものの存在を承知していません。

 上野教授:(沈黙)」

 残念ながら、この本は絶版になっているが、思い出すのも嫌なくらい、堕落した東大駒場の姿が活写されている。