立憲主義 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 言論出版の自由であれ,信教の自由であれ、今日私たちが享受している基本的人権は、人類の長年にわたる闘いの成果である。つまり、それは普遍的なものであって、日本的な権利とか、アメリカ的な権利とかいった類いのものではない。したがって、現代民主主義国家の憲法は、基本的人権に関するかぎりは、大同小異である。

 そもそも憲法とは、国家権力に対して、主権者である国民が身を守るための道具なのである。もちろん納税、勤労、子女に普通教育を受けさせる義務などが定められているが、国民の権利を保障することこそが憲法の憲法たる所以である。最近の日本人の礼儀作法がなっていない、また家族の絆が希薄になっているからといって、それは憲法とは何の関係もない。道徳や家族について、憲法の項目を増やしたところで、問題が解決するわけではない。

 日本人が、「国家権力から身を守る最後の手段が憲法である」という基本的なことを十分に認識していないのには、理由がある。第一に、現行憲法が、フランスの人権宣言やアメリカの独立宣言と違って、日本人が血を流しながら闘いとったものではないし、占領下でアメリカによって、いわば与えられたものだからである。第二に、戦後、わずかの時期を除いて、自民党が政権の座にあり、政権交代の経験が限られているからである。野党になったときに、政権側による攻撃や弾圧を跳ね返す武器が憲法なのである。そこで、与野党を問わず、憲法が保障する権利を付与することが不可欠なのである。与党の経験しかなければ、このことの重みに気づかない。

 イギリスの劇作家、ロバート・ボルトは、トーマス・モアの生涯を描いた戯曲で、モアに「最後の法律を切り倒し、悪魔が振り返って君に襲いかかったら、どこに身を隠す?私は悪魔にさえ法律の恩恵を与えるだろう、私自身の安全のために」と語らせている(『すべての季節の男(わが命尽きるとも)』。法律の重要性を訴えたモアは、それゆえに断頭台の露と消える。ヴォルテールは、「私はあなたの意見には同意しかねる。しかし、あなたがその意見を言えるように最後まで闘う」と宣言した。ポピュリズムに流れがちな日本人に、モアやヴォルテールの決意が理解できるであろうか。

 劇場型政治の熱気は、現代の大衆民主主義の危うさを際立たせる。当時最も民主主義的といわれたワイマール憲法の下で、選挙を通じて合法的にナチスは政権に就いたのである。ヒトラーは、その後憲法を停止し、独裁者の地位に登りつめる。「政治による支配」が「暴力による支配」に道を譲ったのである。ここで「政治による支配」とは、現代民主主義国家が憲法で規定しているような基本的人権の上に成り立つものである。わかりやすく言えば、弾丸による支配ではなく、言論や投票による支配である。

 憲法は、多様な価値観を認め、普遍的に主権者である国民の権利を最大限に守るものでなければならない。道学者的に国民の立ち居振る舞いを規制したり、

日本的価値観や伝統を定義したりするものであってはならないのである。

(注:この文章は、私が参議院自民党政審会長のとき、2007年5月に書いて毎日新聞に掲載されたものである。10年以上経っても、自民党の国会議員の認識はあまり変わっていないようである。)