無用の人 無用庵茶話0506 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

雲に乗り風を操る、道士のトリです(キョンシー(殭屍)ではありません)。

 

新聞広告に、最首悟『能力で人を分けなくなる日――いのちと価値のあいだ』(創元社)という本が紹介されていた。

読んでいないが、これはタイトルからしてトリ向きだ。

このタイトルを見て、「ダメな人でもいいんだ」という安心感を持った人も多いだろう。

 

しかし、それは果たして現実的なことなのだろうか。

実際には、能力の高い方が実入りもよい。

競争社会で生き残るためには、相応の実力が必要になる。

人を「良い子・悪い子・普通の子」に分けて判断するのが常識だ。

 

読んでいないので、最首先生が何を根拠に「能力で人を分けなくて良い」と言っているのかわからないが、もし「能力で人を分けるべきではない」という理想論であるなら、それはへそ茶、噴飯ものの寝言であろう。

だって、生物学者の最首先生が先生になれたのは「ほかの人よりも能力が高かった」からだし、このような本が出版されるのも、能力の高さが評価されてのことだからだ。

ご自身が大学に採用されたとき、採用されなかった人との間に、ある線引きがなされていたということに、気づいておられるのかどうか。

無論、自分が能力で分けられるのは良いが、他人には勧めない、というのもひとつの見識ではあるが。

 

こういうのを、世間では「いちゃもん」というが、そもそも「能力で人を分けない」というような正論を語る人は「ああなりたい」という理想的な人物であり、「ああはなりたくないものだ」といわれる、トリのような人物の対極に位置する。

この、対極に位置する両者を、「分けなくて良い」というのだから、恐れ入るほかない。

 

確かに、法の下の平等は保証されており、お天道さまの光りも等しく降り注いでいる。

しかし、「お天道さまと米の飯は、どこへ行ってもついて回る」というけれど、「米の飯」の方は、能力によってかなりの違いが出てくる。

こうした差を、「関東在住」と「関西在住」のような、地域差と同じようなものとして捉える視点も、あるにはあるだろう。

また、その違いは「能力」ではなく、「地位」による差であり、「地位」は能力と無関係ではないにしても、能力が高いからといって高い地位につけるとは限らないから、無視してよいという意見もあるだろう。

 

いずれにしても、「能力」で分けるとか分けないという以前に、根源的な不平等が、厳然として存在しているという事実から、目を背けるわけにはいかない。

スポーツでは、「平等」を期すために、体重・体格・男女別を設定し、可能な限り同じ条件で競技を行う、としている。

テストステロン値が多めだった女子選手が、出場停止になった例もあるくらいである。

 

しかし、平等なのはそこまでで、練習や体作りに時間と金をかけられるかという点においては、非常に不均衡なままである。

湯水のごとく金を使って、高価な食材や栄養素を摂取し、高級なトレーニング施設で優秀なコーチやトレーナーのもと練習ができる選手がいる一方、仕事のために練習時間が少なく、金もないのでコーチやスタッフを雇えないという選手もいる。

いっそのこと、競技のためにかける金額が「年間〇〇円」「年間××円」などの階級を設けて、その階級別で試合をする方が平等だと思うが、誰もそんなことは考えない。

 

このように、差別というのは、空気中の花粉のように巧妙に紛れ込んでいて、「外を歩いていて、空気は吸っても花粉は吸わない」というような選択ができないのと同じような仕組みになっている。

だから、「能力で人を分けない」というのは素晴らしいことかもしれないが、その他に人を分ける要因はいくつもあり、それらと密接に関連しあっているのだから、本当に純粋に「能力」だけを取り出し、差別から解放することはできない。

ゆえに、トリの結論は、「あきらめて、(能力で)人を分けること(分けられること)を気にしない」となる。

 

現状では、少しでも評価の高い方に分類されなくては、生きていけない。

しかし、生きていけないのなら、それはそれで仕方がないと思うのが、「あきらめ(=明らめ)」というものだ。

何が何でも生き残らなくては、と思うから苦しくなるんである。

生き残るのが良いという価値観から自由になると、楽になると思う。

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※「昼寝をする人としない人」に分けられる。