無我について① 空心齋閑話0614 | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

おはようございます。

日々、方丈真禅を実践する、仏教者のトリです(うちでは、昼寝のことを「瞑想」と呼んでいます)。

 

ものにはなべて定義があり、仏教も例外ではない。

仏教において、これさえ取り外さなければ良いというのが「三法印」である。

三法印は以下の通り。

①諸行無常、②涅槃寂静(一切皆苦)、③諸法無我

( )のところは人によって入れ替わるので、いっそのことどっちも入れて「四法印」にしてしまえばいいと思うが、「三」の方が座りが良いのだろう。

 

「諸行無常」というのは、何事も同じ状態でとどまることはない、ということであり、「諸法無我」というのは、私を構成する要素の中に、「我=アートマン」という常住不変の魂を認めることはできない、ということである。

 

ところで。

このごろずっと、しつこく龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』及びその解説、そして中観派についての文献を読んでいる。

龍樹が『中論』全体を通じて言いたいのは、「この世は妄想だ」ということと、ブッダは「縁起ー無自性ー空」を説き、それによって解脱への道を示した、ということである(たぶん、恐らく)。

 

そのなかで、後に「中観」といわれる思想が、「非有非無の中道」というもので、これは何にしても「有るのでもなく、また無いのでもない」という見方のことである。

『中論』においては「不滅不生、不断不常、不一不異、不来不去」の八不として示されている(帰敬序)。

つまり、あるものごとについて「ある」と言い切っても「ない」と言い切っても間違いだ、というのである(「あるのでもなく、ないのでもない」という)。

 

それならば、「諸行無常」「諸法無我」はどうか。

ここでは、「常」はない。「我」はない。と言い切っている。

もし、ここに龍樹の言い方が適用されるならば、「諸行無常」及び「諸法無我」は、「諸行非常非無常」であり、「諸法非我非無我」であるということにならないだろうか。

 

そうなると、根本的な「我」アートマンは、「有ることもなく、無いこともない」という仕方で存在する、ということになる。

もしくは、同じ仕方で存在しない、ということになる。

 

「我」もまた空であるという観点からすれば、「施設」されるという仕方で、私にアートマンがある、と言っても良いということになる。

また逆に、「空」であるからして、「我」の自性はないのだから、私にはアートマンは無い、という言い方もできる。

いずれにしても、「無」とだけ言い切ることは、「中道」から外れているのではないかと思う。

 

これについて、本家龍樹はどう言っているのか。

長くなってきたので、続きはまた来週。

※高野山のカモシカ。