おはようございます。
日々、方丈真禅を実践する、仏教者のトリです(うちでは、昼寝のことを「瞑想」と呼んでいます)。
ものにはなべて定義があり、仏教も例外ではない。
仏教において、これさえ取り外さなければ良いというのが「三法印」である。
三法印は以下の通り。
①諸行無常、②涅槃寂静(一切皆苦)、③諸法無我
( )のところは人によって入れ替わるので、いっそのことどっちも入れて「四法印」にしてしまえばいいと思うが、「三」の方が座りが良いのだろう。
「諸行無常」というのは、何事も同じ状態でとどまることはない、ということであり、「諸法無我」というのは、私を構成する要素の中に、「我=アートマン」という常住不変の魂を認めることはできない、ということである。
ところで。
このごろずっと、しつこく龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』及びその解説、そして中観派についての文献を読んでいる。
龍樹が『中論』全体を通じて言いたいのは、「この世は妄想だ」ということと、ブッダは「縁起ー無自性ー空」を説き、それによって解脱への道を示した、ということである(たぶん、恐らく)。
そのなかで、後に「中観」といわれる思想が、「非有非無の中道」というもので、これは何にしても「有るのでもなく、また無いのでもない」という見方のことである。
『中論』においては「不滅不生、不断不常、不一不異、不来不去」の八不として示されている(帰敬序)。
つまり、あるものごとについて「ある」と言い切っても「ない」と言い切っても間違いだ、というのである(「あるのでもなく、ないのでもない」という)。
それならば、「諸行無常」「諸法無我」はどうか。
ここでは、「常」はない。「我」はない。と言い切っている。
もし、ここに龍樹の言い方が適用されるならば、「諸行無常」及び「諸法無我」は、「諸行非常非無常」であり、「諸法非我非無我」であるということにならないだろうか。
そうなると、根本的な「我」アートマンは、「有ることもなく、無いこともない」という仕方で存在する、ということになる。
もしくは、同じ仕方で存在しない、ということになる。
「我」もまた空であるという観点からすれば、「施設」されるという仕方で、私にアートマンがある、と言っても良いということになる。
また逆に、「空」であるからして、「我」の自性はないのだから、私にはアートマンは無い、という言い方もできる。
いずれにしても、「無」とだけ言い切ることは、「中道」から外れているのではないかと思う。
これについて、本家龍樹はどう言っているのか。
長くなってきたので、続きはまた来週。