相即の論理 | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

おはようございます。

日々目が回るほど超多忙な、文化人のトリです(暇人即多忙で、睡眠時間を削り惰眠を貪っています)。


天台宗が採用してから、日本仏教の代名詞となったのが本覚思想(如来蔵思想)である。

これは以前にも言及したが、キャッチフレーズ「草木国土悉皆成仏」のもと、全ての衆生に仏性を認めている。

元ネタは『如来蔵経』『不増不減経』、そして如来蔵思想をまとめた『究竟一乗宝性論』、中国の『大乗起信論』などで、修行して初めて悟る「始覚」に対して、元から悟っているという「本覚」を提唱している。


その論理的根拠を「相即の論理」といい「煩悩即菩提」「生死即涅槃」など、即によって両極端を一致させる論理となっている。

それで「衆生即仏」が成り立つ。

だから「悉皆成仏」と言えるのである。


これらは、両極端であればあるほど一致するように見える。

それなら、思い切り敷衍して「憎悪即赦免」と言うことも可能ではないだろうか。

相手を憎み恨むことが、即ち許すことである、という考え方である。


「絶対許さん」と言い、その相手に会ったら実際に刺殺すかもしれないくらい憎んでいる、その憎しみ自体が即ち赦(許)しになっている、ということだ。

ちょっと何言ってるか分からない、と言われそうだが、煩悩即菩提と同じく、単に物事の現象的側面のみを見ている限り、分からない。


怒り狂っているときには、自分の状態を客観視できない。

そういうとき、「怒即赦:怒っていることは許しそのものだ」と言ってみると、否応なく反対側の極が視野に入り、中和が起るのではないか。


とまあ、ごちゃごちゃ言っておりますと…。

暇なんだね、とよく言われる。

そう、しかし暇だからといってごちゃごちゃ言い始めると、意外に忙しい。

暇人即多忙、という所以です。


※ネコ即ウサギ。