本願ぼこり 火曜漫談・増刊号 | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

おはようございます。

日本近代史を専門にする、歴史学者のトリです(100年後の歴史家に問いたい。「今」は戦後ですか?戦前ですか?)。

 

柴田錬三郎の短編小説に「河内山宗俊」という作品がある。

かなり以前に読んだきりで、内容もほとんど覚えていないが、ラストシーンで、捕まって投獄された宗俊が、出された料理に毒が入っていると知りながら、「平然として」それを口に運んだ、という場面の描写があったはずで、そのことだけはよく覚えている(つもりである。違っていたらすみません)。

 

小説では、いかにも豪胆な人物像に描かれているが、実際の河内山宗俊(春)は、11代将軍家斉の茶坊主(同朋衆)で、やがてヤクザの仲間になり、恐喝罪でパクられるという、不名誉な人生を歩んだ人である。

ただ、牢に入れられた後で毒殺されたという説があることから、裏社会ではかなり影響力のある人物だったらしい。

 

今回は、茶坊主のことを書くのがメインではない。

「本願ぼこり」について書こうと思っていた。

 

「本願ぼこり」というのは、阿弥陀仏の本願により、既に往生できることが確定しているのだから、悪いことをしても大丈夫、というようなことを言う人のことである。

浄土真宗では、これが厳しく批判されている、という。

 

平岡聡『親鸞と道元』(新潮新書、2022年)では、

「浄土真宗では「本願ぼこり(阿弥陀仏の本願をほこり、それに甘えて造悪無礙〔悪を造っても往生の礙げにはならぬという考え方〕を行うこと)」が厳しく戒められている。・・・・・・親鸞は徹底的な自己否定のすえ、いかなる善もなしえない自分に阿弥陀仏への信が生じるのも、自分ではなく他力ととらえた。それを自覚した人は阿弥陀仏を鑑に自らの根源悪を知らしめられるが、それに気づけば、さらなる悪の深淵に陥る可能性は低くなる」(77頁)

という。

 

しかし、そういって批判されている「本願ぼこり」の人こそ、「煩悩具足の凡夫」であるから、むしろそういう人の方が往生に近いというのが親鸞聖人の見解ではないのか。

 

その理由として親鸞聖人自身が語っているのは、「本願ぼこり」を批判する人は、「宿業を理解していない」ということだ。

書簡集「末燈録」に「くすりあり、毒をこのめとさふらふらんことは、あるべくもさふらはずとおぼえ候」とあり、これが『歎異抄』第十三条に引かれている。

「御消息に「くすりあればとて毒をこのむべからず」とあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。」

『宝積経』巻88にある毒と薬の比喩を引用して、「薬があるからといって、毒を好むのは間違いだ」というのだが、これは原則論に過ぎない。

 

『歎異抄』では、いかなる悪も、宿業に依らなければ為すことはできない、という。

「「そうなる業縁が働けば、どのような振る舞いでもするよりほかない」と親鸞聖人はおっしゃったのに、最近では善人面をした者でないと道場へ入れないようなありさまで、・・・(中略)・・・本願に甘えて罪を造ってしまうのも、宿業の働きによるものである。

だから、善いことも悪いことも宿業なのだとあきらめて、本願だけを頼りにするのが他力というものだ。

 

・・・(中略)・・・本願に甘える心があるということこそ、他力を頼む信心が決定的である証拠ではないか。阿弥陀仏の本願に甘えるのは良いことではないが、甘えないようにしようとすれば、煩悩を断じ尽くさねばならず、それはもはや成仏しているのであって、そういう自力で成仏できるのだったら、せっかくの阿弥陀仏の本願が不要になる。

本願ぼこりといましめられる人々も、煩悩具足しているのだ。そういう人こそ、本願ぼこりなのではないのか。いかなる悪を本願ぼこりと言って批判するのか。却っておかしなことではないか。」(『日本古典文学大系』82、205~206頁。引用はトリ訳による)

 

先に見た平岡のような見解は、親鸞聖人の本意ではない。

「良い薬があるから、毒だと分かっていてあえて飲む必要はない」と言いながらも、毒だと分かっていながら飲まざるを得ない宿業のほうに、力点が置かれている。

 

河内山宗俊が茶坊主からヤクザに転落したのも、度々ゆすりを働いて当局に睨まれたのも、投獄されて毒を盛られたのも、そしてそれを知りながら「平然と」手をつけたのも、親鸞聖人によればすべて「宿業」の故である。

 

ただこれを単純な運命論、宿命論と取ってはならないと思う。

宿命論、運命論では、そういう流れが外的に決まっているという感じだが、「宿業」は、様々な選択肢があり、自由意志で決められそうな場合でも、「内的必然」によって、100パーセント自由意志でそれを選んでしまう、というところに宿業の働きを見ている。

 

ここで疑問が出てくるだろう。

では、汚職した政治家や不倫したタレント、粉飾決済した社長からプーチンに至るまで、みんな「宿業」によってそうしたのであり、むしろそれだからこそ往生確定である、と言っていいものなのか?と。

 

残念ながら『歎異抄』を読む限り、例えば大島よりも渡部の方が往生に近い、と言うほかない。

バイデンより先にプーチンが先に救われるだろう。

それじゃあ、めちゃくちゃで、この世の秩序がおかしくなる、と思われるかもしれない。

 

しかし、宗教というものは、もともとそういうものである(だから親鸞も法然も迫害された)。

この世の秩序をめちゃくちゃにするところに、宗教の良いところがあるので、「本願ぼこり」を批判し、善人面をしていないと道場へ入れないという方が、本来おかしいのである。


※無茶言うたらあかんがな〜。往〜生しまっせ〜!