オスカー像についてのトリ説 | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

おはようございます。

人気絶頂ビジュアリスト、映像監督のトリです(代表作は『風流赤城時雨』など。『Mt.KO-JIN~吉良の仁吉伝』で、カンヌ映画祭銀鱈賞受賞)。

 

映画界のお祭りに、アカデミー賞というのがある。

アメリカの映画芸術科学アカデミーというところが、前年に公開された映画の中から、作品賞とか主演男優・女優賞などの賞を授与するというもので、受賞は大変名誉なこととされている。

 

授賞式では、半裸体の男の像が手渡されるのだが、これを「オスカー像」という。

そのため、アカデミー賞を受賞した俳優や監督を「オスカー俳優・監督」などと呼んだりするのは、周知のことである。

このオスカー像について、よほど映画に疎い人でも、その存在を知ってはいるだろう。

 

しかし、なぜそれが「オスカー」と呼ばれているのかについては、諸説あって定説がない。

オスカー(オスカル)というのは、欧米では一般的な名前で、さして驚くにはあたらないが、日本のアカデミー賞のトロフィーが「ゆうじろう」などと呼ばれてはいないことを考えると、なぜオスカーなのか疑問が募る。

 

お約束のウイキペディアを見ると、「オスカーおじさん説」「スコルスキー説」「ベティ・デイヴィス説」の三つが併記されているが、どれも根拠が薄く信頼に足る節ではないことが書かれている。

 

というわけで、お待ちかねのトリ説をご披露しましょう。

あれの元ネタは、スウェーデン国王オスカル二世(在位1872~1907)なのではないか、というのがトリ説である。

この国王は自身も自然科学に造詣が深かったが、学者を優遇することを生き甲斐としていて、この王様の肝煎でスウェーデン・アカデミーがノーベル賞を授与することになったのは有名な話である。

 

それよりも前。

オスカル二世は自分の60歳の誕生祝いに、何かイベントをしたいと思いついた。

そのとき、スウェーデン数学界で幅を利かせたいと画策していたイェスタ・ミッタク=レフラーという数学者が王をそそのかし、懸賞論文を募集してはどうかと持ち掛けたのである。

「オスカル」の名前の付いた賞を誰かに授与することで、自分の存在を印象付けられると思った王様は、この提案を気に入った。

 

このイベントは、初めからごたごた続きで、最後までピリッとしないものに終わってしまったが、結論を言えば、この時授賞したのはフランスの大天才、有名なジュール・アンリ・ポアンカレさんであった。

この人が「トポロジー(位相幾何学)」の分野において提出した「ポアンカレ予想」は、2006年にグレゴリー・ペレルマンが証明するまで、誰にも解けない超難問として、約100年間数学界に君臨し続けた。

 

それはともかく、このオスカル賞は大変な話題となり、ポ氏はその後レジョン・ドヌール勲章まで受章したのだった。

予定では、四年に一度懸賞論文を募集することになっていたが、そのときのごたごたのせいか、オスカル賞はこの一回限りで終わってしまったという。

 

しかし、オスカル二世の目論見は成功し、その記憶は残り続けた。

アメリカの映画界が、自分たちの企画する賞が、単なる晩餐会の余興を脱して、権威ある賞にしたいと思った時、先ず想起されたのがこの「オスカル二世王の賞」だったのではないだろうか。

 

それだから、像はおっさんの姿で作られたのだ。

そうでもなければ、ムーサイ女神(ミューズ)のようなものをかたどっても良かったはずである。

しかし、その造形の経緯は、いつしか忘れられた。

アメリカの映画芸術科学アカデミーから正式な認可を受けて発足した日本アカデミー賞では、トロフィーはおっさんの形をしていない。

※オスカー像。