おはようございます。
トリニティ教会神父のトリです(朝寝・朝酒・朝湯の三位一体)。
昨今「誹謗中傷」が話題となっている。
有りもしないことについて、文句を言う奴も多いらしいが、誰が見ても良くない行為をした人に対しての、仮借なき批判攻撃も問題になっている。
先日亡くなった俳優さんも、東出君の不倫騒動に言及したせいで、「お前は不倫が悪だということを知って、東出に肩入れするのか」というような批判を受けていたそうである。
最近、渡部事件のインパクトの方が大きくなって、東出は許されてきたようだが、東出を非難していた連中のほとんどはやっかみである。
もし、東出君の奥さんが、蒸し饅頭を下駄でひっくり返したような女性だったと仮定してみよう。
はたしてあそこまでバッシングされただろうか。
東出を非難した連中の大部分は、自分が東出だったなら、絶対に同じ事をした連中だ。
やっかみでなくて何だというのか。
先日、旅行家たかのてるこさんの著作を引用して、インドと日本の「迷惑行為」に対する反応の違いについて書いた。
トリの記憶では、これはひろさちやさんが書いていたことだが、日本では「人に迷惑をかけないように」と教えるのに対して、インドでは「他人からの迷惑を許してあげなさい」と教えるそうな。
インドの方が、懐ろが深いとひろさんは言っていた。
ことは迷惑行為に限らない。
他人のしたことを、快く許してやれる人は、懐ろが深い。
「罪なき者だけが、石を投げよ」
と、イエス・キリストも言っている(「ヨハネによる福音書」)。
そこからすると、いかなる犯罪者が出てきたとしても、石を投げ得る人などいないと思う。
しかし、現実にはほぼ石の投げ合いになっている。
それだけ余裕のない社会になっているということだろう。
何かあると、すぐに鬼の首でも取ったように非難囂々する連中が現れるのは、不満がたまっている証拠だ。
その時点において自分は悪いことをしていないから、というのが他人を非難する理由になっている。
大人たちは、もはや手遅れだ。
だから、これからの時代を生きる子どもたちにお願いしたい。
一歩間違えば自分も悪いことをしてしまうかもしれない、という自覚的な想像力と、いくら悪いことをしてしまったからと言って、ボロカスに言われたらやはり傷つくのだという、正当な想像力を養ってほしいものである。