食文化に関する一考察 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

皆さんこんにちは。
グルメ評論家のトリです(好物はチキンラーメンです)。

平安仏教のスーパースター・弘法大師空海にまつわる有名なグルメエピソードがある。
お大師さんが病を得て臨終の床に横たわっていたときのこと。弟子たちが知恵を絞って用意した食事を持ってくると、断固とした口調で、
「そんなもの、食うかい」
と言って断った、というお話である。

ネットニュースを見ていると、たまに信じがたい記事に遭遇することがある。
先日も、中国四川省で、動物愛護団体から保護犬を譲り受けた男が、帰宅後に犬を撲殺し、友人と一緒に食べたという記事があった。
男は反省して謝罪し、愛護団体に金三万円也を寄付したそうだが、高い食事代についたものだ。

ところで、その話にはお決まりの続きがあり、ネット上で批判などが殺到してお約束の炎上とあいなったらしい。
「犬がかわいそう」とか「動物保護の趣旨にもとる」などの意見があったそうだが、中国人は四足なら机以外、翼のあるものはヒコーキ以外みんな食べるといわれるグルマン国民だから、全く驚くには値しない。

ペット前提の保護犬を食べようと思いついた男の神経には些かついていけないが、さりとて犬を食べることが一律に悪いわけでもないと思う。
今回はすぐさま殺したのでインパクトがあったのだが、飼育してしばらく太らせて、などと考えている中国人は案外あちこちにいるのではないか。
それに違和感を持つのは、そういう文化的背景がないからで、食べるために犬を飼ってはならない、というのは暴論だろう。
いけないというのなら、食べるために牛を飼育している人たちはどうなるのか。

以前、高級なすき焼き肉を頂いたことがある。書類が添付されていて、肉になった牛の名前「松太郎」(仮名)とあり、生前の遺影、そして系図までが掲載されていた。
こうして名前までつけて大切に育てた牛を食べるというのは、ちょっと悪い冗談のような気もするが、松太郎のすき焼きは無類に旨かった。
しかし、業者の方は、どんな気持ちで牛を見送ることだろう。
有名なグルメ漫画『美味しんぼ』(小学館)に、自分が育てた牛の肉を卸した料理屋に、ステーキ食べに行くのを趣味としている牧場主の物語があった。
今から思えば、悪い冗談のような話にも思えるが、それも一つの供養の形なのだろう。

ここで件の犬食い男に戻る。
彼は犬をまさに食べるために手に入れたが、しばらく飼っていると情が移って食べられなくなると判断し、即日完食を遂行したのではないだろうか。
根はやさしい男なのかもしれない。

いや、そこまでして犬を食べることはないだろう、というご意見もあるかと思う。
しかし、あるかもしれないのである。
うちの祖父が応召して中国南方にいた時、食べるものがなくて困り果てていた。
あるとき、赤犬が群れているのを見つけ、銃で撃ち殺して食べたのだという。
「あれは旨かった」
と祖父はヨダレをたらさんばかりに回想していた。
つまり、かなりの美味であったということだ。
残念ながら、その後は犬たちに警戒されて、二度と捕まえることはできなかったという。

そういうわけで、今も中国には犬を見てご馳走が歩いているように見える人たちが存在するのだろう。
牛や豚を食べながら、犬を食べる人を排斥するのは、やはり筋違いだと思う。
そんなら、菜食主義ならいいのかというと、それも疑問だ。
最新の研究では、草木も感情があり痛みを感じるそうなので、カスミだけを食べて三年、とかいうような人でなくては、他人の食生活に文句をつける資格はないだろう。
もっとも、カスミを食べて三年というような人が、他人をむやみに批判するかどうか、それは分からない。
※おじさん、その亀、食べるんですか?