東日本大震災発災の日です
13年前、その翌日に宮城県に入り
津波の現場で1ヵ月ほど取材活動を行い、「とくダネ!」に日々中継を入れていました
あの時の体験は一生忘れませんし
伝え続けなければいけないと、毎年欠かさず、東北を訪れ、担当番組で取材報告や提言を行ってきました
今年は奥能登を取材しました
13年目に見えてきたことは
いくら避難所の設備や防災グッズが発達しても
【自分たちの街は、自分たちの避難所は、「自分たちで守る」と言う強い精神と行動力を持たないと、困難は乗り越えられない】という大原則でした
もちろん、行政のさらなる震災への備えが必要ですが
「役場の人が何かしてくれるだろう」と言う甘い精神では震災は乗り越えられない、と言う厳しい現実でした
そして、3月10日、前日の今日は
プライベートで東北を訪ねました
あの時、出会い、今も交流が続いている方々をお訪ねしました
皆さんの元気なお顔を拝見すると、本当に嬉しくなります
発災当時、お子さんだった方も、成人して、立派な人になって、
仙台で1番人気のスイーツ
「シーラカンス」と言うものらしいのですが、1時間半も並んで買ってきてくれました
おいしい栗ご飯などもご馳走してくださいました
その後は東松島へ
ここも被害の大きかった地区
復興支援団体「プラスネオ」の
復興2号に久しぶりに乗っての移動です
当時、取材活動中に出会った
プラスネオ、ボランティアの
中村さん(左)と中津川さん(右)
この13年間、東松島を中心に、変わらず支援活動を続けています
代表の中村さんは、早い段階から決断をして、東松島に移住し、地域に寄り添い続けています
久しぶりの再会を喜び合いました
私が震災3日目に訪ねた野蒜小学校
町全体が水没したので、避難所の全てが泥だらけで、大変過酷な状況でした
それが、今では、防災や減災をアクティブに体験し学ぶことができる素晴らしい防災体験型宿泊施設
KIBOTCHA「キボッチャ」へ変貌を遂げていました
校庭だったところでは、明日の慰霊祭の準備が進んでいました
素晴らしいサンドアートと竹灯籠
竹灯篭は以前、大川小学校で見たものと似ていると思ったら、同じボランティアスタッフの方たちによるもでした
私もお手伝いさせていただきました
竹にドリルで穴を開けていくのですが、簡単なように見えて、かなりの力仕事で、これだけの穴を開ける作業はほんとに大変です
さらに、部屋の中では、東松島の皆さんが、能登地震被災地への支援活動を行っていました
もちろん私も参加!
大量の白菜を細かく切ってを500グラムずつ袋詰めにして、輪島市に送るのです
大きな災害を体験しているので、こういった活動の重要性を、皆さんわかっていらっしゃるのですね
とても温かい気持ちになりました
そして、再会を誓いあって
東松島を後にしました
仙台駅に、会いに来てくださった方がいました
発災当初、宮城野区の岡田小学校避難所で1000人の被災者の面倒を1人で見ていた高橋さん
高橋さんに言われました
『今年は会えないと思ってました。
笠井さんが来ないと言う事は
「復興したんだ」と喜ぼうと
思っていました』
その前向きな言葉が心に刺さりました
「まだまだ来ますよ」
仙台駅で別れる際に、そう言った時の高橋さんの笑顔がとても印象的でした
時間はかかったけれど、東日本大震災の当時の被災地は、着実に前に進んでいます
そんな思いを込めて、竹灯籠には
【前進】と書かせていただきました
もちろん課題もありますが、現地の人のあたたかさと、力強さを東北に行くと感じるんです
今日3月11日、改めてみの回りの防災のことを考えてみるのも良いのではないでしょうか?