3月11日は東日本大震災が起きた日です。
やはり今年は、この日を病室で迎えることになりました。
あの大災害の日からこれまで8年間、毎年必ず被災地を訪れ
その年その年の問題点を、人々の絆を、「とくダネ!」でお伝えしてきました。
しかし、9年目にして、私の活動は途絶えてしまったのです。
悶々として、「とくダネ!」のスタッフに、今年の特集の企画書を病室で書いて送ったりもしました。
9年前のあの日…。
発災直後のアナウンス室の私のデスク
大津波の映像を見て、
「被災地にいかせてほしい」と、「とくダネ!」の大野プロデューサーに頼み込みました。
津波で水没した石巻市
現場に阪神・淡路大震災の取材経験者が必要だと、直観的に感じたのです。
阪神・淡路大震災 神戸上空
部長レベルのアナウンサーが災害現場に行く事は異例のことでしたが、肩を押してくれました。
12時間かけて2日目の昼、仙台に到着。
壮絶な津波被害の光景に心が折れそうになりました。
①崩壊した町
②屋根に大きく「遺体あり」
③墓地に突っ込んだ列車
④左のヘルメット姿が私。奥は海ではない、水没した平野部
⑤奥のトンネルまで高架橋があったはずなのに・・・。
始めの3日間は、どの港町に行っても町が壊滅状態で、心の中では
「町はもう直らない、元には戻らない、もう、おしまいだ」と
絶望的な気持ちになりました。
しかし、毎日行っていた「とくダネ!」の中継では
その事は決して話ませんでした。
東松島市 野蒜(のびる)小学校前で中継
感情を揺さぶられることが多く、涙をこらえるのも忘れ
ひたすら被災者の方々にどうすれば寄り添えるのか?
そう考えながら取材を続ける1か月。
阪神大震災の時は
多くの住宅や高速道路が倒壊、マンションが横倒しになり大火事が発生。
倒壊した阪神高速道路
長田区の大火
そうした状況の中で、発災当日からそこここで警察や消防、自衛隊が瓦礫の撤去、救出活動を行い、
当日昼には、壊れたお蕎麦屋さんの店主が
店の中から引っ張り出したうどんを使って、炊き出しを行っていました。
阪神大震災の被災地には
悲しいけれど、活気がありました。
しかし、東日本大震災発災当初の津波到達点内は
シーンとしているんです。
撮影:佐藤信一 @南三陸
犬猫いない、鳥はさえずらない。
ヘドロまみれの大地を見渡しても、遠くに自衛隊が1部隊、レスキュー隊が1班
遺体の捜索活動をしているのがわかりました
崩壊と瓦礫と泥だらけの町の中にある避難所を尋ねると
被災者の皆さんは。
「私は良い方です、家が流されただけですので…」
「うちは、亡くなったのは1人だけですから…」
「家族3人失いましたが、みな遺体が見つかったので…」
「良い方です」
どう考えても、過酷な状況なのに、
東北の皆さんは
「もっと大変な人がいますから」と、
歯を食いしばって我慢していました。
そして私の顔を見て、
「遠くからよく来てくださいました」と
笑顔で迎えてくれる方もいらっしゃいました。
たまりませんでした…。
一体どう声をかけて、励ましてあげればいいのだろう。
体は、動いても、頭がついていかないのです。
震災4日目には
「亡くなった方のエピソードばかりだから、明るい前向きなエピソードを、そろそろ取材してほしい」と本社から言われました。
「今日の食料も満足に避難所に届かないのに、明るい話題なんて入るわけないでしょ!」
精神的な疲労から、デスクと喧嘩になったこともありました。
ただ、その凄まじい状況の中で出会った方々とは
9年経った今でも交流があります。
今回、私が大病を患ってしまったので
仙台市宮城野区岡田地区の皆さんから、見舞いの品と寄せ書きが
南三陸の皆さんからも、
お見舞いの品を送っていただきました。
本当にありがとうございます。
寄せ書きにはこう書かれていました。
感慨無量でした。
あれから9年…。
今、被災地では何が課題となっているのでしょうか?
長く取材をしている身として感じているのは…
「あの震災をどう後世に伝えていくのか?」
なんです。
長くなりそうなので、今日はこの辺で。
続きは、明日書きますね。
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東日本大震災、阪神淡路大震災などの
取材体験を書いたルポ
「僕はしゃべるために ここ(被災地)へ来た」
(新潮文庫 税込み605円)
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しれません💦