これらのキーワードが理解できれば、本の内容も理解できます。
 

「シビック・アグリカルチャー・食と農を地域にとりもどす

(トーマス・ライソン著北野収訳)から、


訳者のご了解を頂いてコピー致しました。

 

「シビック・アグリカルチャー」文明国の地方社会モデルだと思います。

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「フードシステム」(food systems)

本来、食べることと農業は密接不可分なものである。しかし、従来の学問分野では、生産、加工、流通、消費、さらには、マーケティングあるいは遺伝資源の問題などがそれぞれ別個の分野として研究がなされていた。フードシステムとは、食をめぐるこうした一連の人間活動、経済行為をひとつの「システム」として把握する概念である。今日、私たちの食は、遺伝資源のレベルから消費者の食卓(究極的には摂取、排泄に至るまで)、ごく一握りの人々によってコントロールされるグローバル・フードシステムへの依存を余儀なくされている。シビック・アグリカルチャー論が提案するローカル・フードシステムとは、物流、さらには、安全性や環境の面のみならず、持続可能な社会と健全な市民社会の基礎条件として位置づけられるものである。

 

「埋め込み」(embeddedness)

自由経済主義、経済原理主義の帰結としてのグローバル化経済の矛盾が顕在化しつつある現在、主著『大転換』で知られるハンガリー出身の経済史・経済人類学者カール・ポランニー(1868年~1964年)の社会経済論の現代的意義が再び大きな注目を集めている。元々、経済が社会に埋め込まれていたというこの「埋め込み」概念は、シビック・アグリカルチャー論の基底概念である。本来、人間の経済は経済的制度のみならず、地域社会における非経済的制度によって規定されている。互酬、再分配、交換が人間の経済における相互依存の統合形態だとされる。すなわち、経済が社会から離床(dis-embedded)し、市場の自己調整的機能を万能の神として自明視するようになった19世紀(以降)の市場決定論・経済決定論こそが特殊なものであり、実現不可能なユートピア的なものである。

 

「社会関係資本」(social capital)

ソーシャル・キャピタル。社会関係資本の定義には諸説あるが、ライソンが依拠するのはこの概念が広く普及する契機となったパットナムの定義である。すなわち、地域の社会発展の基盤となる信頼、規範、ネットワークという三つの要素である。これらは、地域社会・集団が市民的共同体たりえるための要件であると考えられる。社会関係資本が豊かな地域は、住民間あるいは住民と地域内外の組織・機関との協調行動が活性化・効率化し、ある種の「地域力」が高まる。シビック・アグリカルチャー論において、小規模な家族経営農家、食品加工業者、商店などは、市民的共同体を構成する不可欠な要素とされる。パットナムに依拠するライソンは、非西欧圏等にみられる上下関係を含んだ伝統的な社会的紐帯よりも、水平的で平等的な社会的紐帯に着目している。

 

「持続可能性」(sustainability)

一般に「将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たすこと」(国連ブルントラント委員会、1987年)という持続可能な発展という観点から説明されるこの言葉は21世紀の人間社会のキーワードの一つである。しかし「持続可能性」の意味は、使われる文脈によって大いに異なる。端的な差異は、経済成長を持続化させることを前提とした人間の諸活動の改変を想定する立場(成長の持続化論)と、社会と環境を持続可能なものにするために既存の政治経済の仕組みを改変することを想定する立場(持続可能な社会論)の間にみられる。後者に関連して、経済成長そのものを「社会発展」の与件としない脱成長論や定常経済論を唱える論者もいる。ライソンは脱成長にまで踏み込んだ言及はしていないが、少なくとも、社会・コミュニティの持続可能性がシビック・アグリカルチャー論の要諦であると考えている。そして、農と食の観点から「持続可能な社会」の存立を支えるのは、大規模な工業的農業ではなく、小規模な家族経営農家だとする。

 

「引き離し」(distancing)

生産地と消費地、生産者と消費者の物理的な距離が遠隔化するのみならず、かつて両者の間に存在した「顔の見える関係」が消滅し、ひいては、精神的・心理的距離も拡大されてしまうことをさす。生産者は、低コスト化、大量生産に腐心するあまり、農薬や化学薬品に盲目的に依拠するようになる。大企業の契約栽培という垂直的統合の傘下に入ることにより、消費者ではなく企業の要求に忠実であることを余儀なくされる。一方、消費者は、往々にして、ただひたすら「安さ」を求め、仮にそれに安全性、品質、味に対する要求が加わったとしても、一般に、遠く隔てられた生産者がおかれた状況(経済、環境、文化など)を理解しようとする態度は希薄である。今日ではこうしたことは常態化しているが、歴史的にみればきわめて異常なことであるというのがライソンの理解である。

 

「ローカル化、再ローカル化」(localization/relocalization)

ローカリゼーション、地元化、地域化ともいう。グローバリゼーションに疑義を唱える人々によって、対抗的言説あるいはキーワードとして語られるようになった概念。ローカル化すべき人間活動、経済活動はすべての領域にわたるが、とりわけ、重要なのは食料・農業に関するものである。その意味するところは、食の安全性、輸送コストの削減を通じた低酸素社会の実現といった技術論としての「エコロジー」にとどまらない。産業化された社会・文化と開発途上の社会・文化、進んだ都市と遅れた農村、人間と自然の関係など、人間の認識や価値観に潜む目に見えないバイアスや思い込みから人々を解放するという政治的挑戦も意味する。ローカル化は「すべての食料を地域内自給すること」という誤解があるが、ライソンやヘレナ・ノーバーグ=ホッジが明快に否定するように、「生産者と消費者の距離を可能な限り短縮する」というのがその要諦である(H・ノーバーグ=ホッジ(北野収訳)「社会的・エコロジー的再興としてのローカリゼーション」『農村計画学会誌』30巻1号)。本書で詳しく分析されているように、食料・農業生産の国民経済への統合、すなわち、ナショナリゼーションは、地域に埋め込まれたローカル・フードシステムの崩壊の端緒であった。しかし、脱グローバル化のための「第一のステップ」としての国産品購買運動は意味のあることである(H・ノーバーグ=ホッジ、辻信一『いよいよローカルの時代』大月書店、2009年、164ページ)。ここに、国益云々という排外ナショナリズムとは異質な「開かれた地域主義」ともいうべきメンタリティ(多様性の受容)があることを忘れてはならない。

 

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