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私の推奨記事は、

■マーケティング [土門「辛」聞] 米不足は来年の端境期まで尾を引く深刻な問題だ 令和の米騒動を引き起こしたのは、実態を反映せぬ作況指数で需給の基本方針 を示してきた農産政策部の明らかな失政だ。これだけの騒動の原因を作ってお きながら、その背景や原因の究明については頬被り。それどころか責任逃れに 汲々とする無様な姿をさらけ出している。 これには坂本哲志農水大臣(当時)もあきれ果て、なぜ米不足に陥ったか、そ の背景や原因を徹底究明して、10月下旬に開催予定の食糧部会で明らかにせよ、 と厳命した。(土門剛)

 

 

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■特集
今、農地について考える
■経営者
美しい花を求め、育種する色鮮やかな“地上の珊瑚”
■マーケティング
[コメ記者熊野のコメ市場情報]
新米大幅高値スタート 需要企業は安定仕入れ模索

 

 

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久松農園のメルマガが勉強になります。

 

今日は、下段のメルマガの引用に掲載されているYouTubeを見ましたが、なるほど、の内容でした。久松さんは慶応大学卒で大企業から脱サラして有機農家になった方ですが、一般的な有機野菜信仰は間違っていると批判しています。

 

「農家はもっと減っていい:農業の『常識』はウソだらけ」の著者ですが、やはり、農業従事者の減り方が少なすぎると言ってます。NHK始めとする日本のマスメディアは「農業従事者が減って後継者がいない」と報道していますから、真逆のことを言ってます。

 

ですから、信じられないでしょうね。ですが、本当なのです。なぜなのか?不思議に思ってください。もちろん、スマート・テロワール協会の顧問の先生方もキヤノングローバル戦略研究所の農業部門研究主幹山下一仁氏(元農水省官僚)も同じことを主張しています。国民のお金で運営されているNHKはこの疑問を解くのが仕事の筈です。

 

この大きな認識の違いは、表面的な現象を見ているだけでは判りません。原因は、為政者(農水省)の思想(「集約・大規模化」と言ってはいるが、根本は小農温存主義)と農業界(ハード・ソフト両面)の構造にあるからです。国民のお金で運営されているNHKはこの疑問を解くのが仕事の筈です。

 

別な言い方をすれば、農業のお幅近代化・IT化・合理化の遅れということです。前近代的な農業形態のままなのです。農政トライアングル(JA、族議員、農水省)による農政プロパガンダに支配されているからです。

 

久松農園メルマガ8/28より

【Newspicksでの堀江貴文さんとの対談が本になります】

インターネットニュースサイトNewspicksのHORIEONEでホリエモンこと堀江貴文さんとお話しました。堀江さんは農業にも造詣が深く、中身のある議論になりました。ダイジェスト版がYoutubeで公開されています。

 

メルマガのお願いは下記久松農園ホームページの「お問い合わせ」からお願いすればできると思います。

 

久松農園オフィシャルサイト | Hisamatsu Farm Official Site

 

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去る3月5日付けの当ブログに、

標記のシンポジウムが行われたこと、と、

本「南イタリアの食とテリトーリオ」(木村純子・陣内秀信著)が

発刊されたことをお知らせいたしました。

 

今回は、

8月1日の日本農業新聞にこの本のことが紹介されましたので、

その記事を写真にして添付致します。

 

そして、何と、4時間超のシンポジウムの録画が

YouTubeにアップされました。

ご紹介します。

 

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画層をクリックすると拡大します。

尚、下記添付YouTubeは、

4時間24分という長編ですが、内容は素晴らしいです。

今年3月27日に、法政大学市ケ谷キャンパス ボアソナード・タワー26階 スカイホールで行われたシンポジウムの録画です。

 

テリトーリオとは何か、何故、農村・農業なのか、豊かさとは何か、

などなど、21世紀の目指すべき地方の形が見えてきます。

お気に入りに入れて、数回に分けてご覧ください。

法政大学さん、すごいですね!無料で開放してくれています。

 

『南イタリアの食とテリトーリオ:農業が社会を変える』発刊記念 

 国際シンポジウム

 

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スマート・テロワール協会と当NPOの顧問をお願いしている獨協大学北野収教授が

今年1月に出版された著書

「私の中の少年を探しに・ある「農学者」が回想する昭和平成」

の紹介記事が8月11日の日本農業新聞の読書欄に載りました。
 

この本は、北野教授のこれまでの生涯を語ることによって

日本の農業の問題と課題が解る本だと思います。

農業への大きな期待と可能性を随所ににじませた著書だと思います。

 

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新聞記事コピー(画層をクリックすると大きくなります)

 


著書 チラシ

 

 

北野収教授ポータルサイト

https://researchmap.jp/read0077489/

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世界で類を見ない「総合農協」が誕生

ヨーロッパやアメリカの農協は、酪農、青果等の作物ごと、生産資材購入、農産物販売等の事業・機能ごとに、自発的組織として設立された専門農協である。これに対し、農業会を引き継いだJA農協は、作物を問わず、全農家が参加し、かつ農業から信用(銀行)・共済(保険)まで多様な事業を行う“総合農協”となった。欧米では、日本の農協のように、金融事業等なんでもできる農協はない。

農協法の前身の産業組合法も、当初は信用事業を兼務する組合を認めなかった。戦後、農協法を作る際も、GHQが意図したのは、欧米型の作物ごとに作られた専門農協だったし、GHQは、信用事業を農協に兼務させると、信用事業の独立性や健全性が損なわれるばかりか、農協が独占的な事業体になるとして、反対していた。アメリカの協同組合に、信用事業を兼務しているものはない。アメリカから日本のGHQ本部を訪問した人たちは、信用事業を兼務する協同組合が日本にあることに、みな驚いたといわれる。

しかし、農林官僚が日本の特殊性を強調し、総合農協性を維持した。信用事業を兼務できる協同組合はJA農協(と漁協)だけであるし、信用事業と他の業務を兼務することは、農協以外には、日本のどの法人にも認められていない。
 

農協だけに認められた准組合員

農協の正組合員は、農業者である。農業者のための協同組合だから、当然である。しかし、農協には、地域の住民であれば誰でもなれる准組合員という独自の制度がある。

准組合員は、正組合員と異なり農協の意思決定には参加できないが、農協の信用事業や共済事業などを利用することができる。JA農協の前身だった産業組合は、農業に従事しない地主を含め地域の住民を組合員にしていた。しかし、農協法を作る際、GHQは地主を排除するため、組合員資格を“農民”とすることにこだわった。

このため、元の産業組合のように、地域の住民であれば誰でも農協を利用できるようにするため、他の協同組合にない准組合員という制度を作ったのである。利用者がコントロールするという協同組合原則からは完全に逸脱するものだが、歴史的な経緯から、やむを得ず、例外的に認められた制度だった。

政府資金を運用して大儲け

戦後JAバンクは、食糧管理制度の政府買い入れ制度の下、政府から受け取ったコメ代金をコール市場で運用して大きな利益を得た。

さらに、肥料メーカーには、独占禁止法の適用除外を認めた「肥料価格安定臨時措置法」によって1954年から1986年までカルテル価格が認められた。本来の趣旨は、国際市場で価格競争をするため安くなる輸出向け肥料の損失を、国内向け価格を上げて補てんすることがないようにするというものだった。

しかし、制度の運用結果は、正反対のものとなった。1954年当初は輸出向け価格と同水準であった硫安の国内向け価格は、1986年には輸出向け価格の3倍にまでなった。この法律は5年間の時限立法であったが、制度の継続・延長を繰り返し要望したのは、肥料産業というより、肥料販売の大きなシェアを持つ農協だった。

 

3に続く

…農林中金「1兆5000億円の巨大赤字」報道が示す
"JAと農業"の歪んだ関係

:農協マネーを外国債投資で溶かした根本原

キヤノングローバル戦略研究所(CIGS)メルマガ7/18より
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なぜ簡単に資本増強できるのか

JAバンクの中央機関、農林中金は、5月22日の記者会見で、米金利高止まりによる外債価格下落で、2025年3月の赤字が5000億円となる見込みとなり、傘下のJA農協から1兆2000億円の資本増強を受けると公表した。ところが、6月18日、報道各社がその最終赤字は1兆5000億円規模に拡大する可能性があると相次いで報じた。08年のリーマンショックの際にもサブプライムローン問題で5700億円の赤字を計上し1兆9000億円の資本増強を行っている。

JA農協の金融機関である農林中金が、なぜ多額の資金を外債で運用して損失を被ったのか、なぜ簡単にJA農協から巨額の金を集められるのか、不思議に思われる人が多いのではないか。本稿では、その理由や背景と今回の赤字が農業に与える影響について述べたい。

 

JA農協が持つ「政治力」と「資金力」のルーツ

戦前、農業には「農会」と「産業組合」という2つの組織があった。

「農会」は、農業技術の普及、農政の地方レベルでの実施を担うとともに、地主階級の利益を代弁するための政治活動を行っていた。農会の政治活動の最たるものは、米価引き上げのための関税導入だった。

農会の流れは、現在農協の営農指導・政治活動(JA全中の系統)につながっている。地主階級が米価引き上げや保護貿易を推進したのと同様、農会を引き継いだJA農協は、高度成長期に激しい米価闘争を主導したし、ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉、TPP等の貿易自由化交渉においては、農産物の貿易自由化反対運動を展開した。

「産業組合」は、組合員のために、肥料、生活資材などを購入する購買事業、農産物を販売する販売事業、農家に対する融資など、現在農協が行っている経済事業(JA全農の系統)と信用事業(JAバンク、農林中金の系統)を行うものだった。

JA共済事業は、職員に過酷なノルマを課すことで、勧誘がうまくできないと自分で保険に加入したり他人の保険料を負担したりする自爆営業を行わせていることが問題となっている。これは、戦後追加されたもので、本来農業と関連するよう考えられたものだが、今の事業は、生命保険や損害保険と変わらない。

2 に続く。

 

昭和恐慌を機に全農家が加入

当初産業組合は、地主・上層農主体の信用組合にすぎず、1930年の段階でも、零細な貧農を中心に4割の農家は未加入だった。

しかし、農産物価格の暴落によって、娘を身売りする農家も出た昭和恐慌を乗り切るために、1932年農林省は、有名な「農山漁村経済更生運動」を展開する。産業組合は、全町村で、全農家を加入させ、かつ経済・信用事業全てを兼務する組織に拡充された。これを農林省は全面的にバックアップした。

特に支援したのはコメの集荷と肥料の販売だった。これに圧迫されたコメ商人や肥料商人から激しい“反産(産業組合)運動”が起こされた。

 

政府系金融機関として誕生した農林中金

農山漁村経済更生運動の大きな目標は、農民の負債整理だった。この手段として、産業組合が活用された。産業組合中央金庫は、その全国団体として設立された。半分が政府の出資によるものだった。したがって、政府系金融機関としての性格が強く、理事長以下の幹部はほとんど役人だった。これが、今の農林中金である。

産業組合中央金庫は、政府の出資金を利用して農業に低利で融資するものだったため、高橋是清蔵相は金融体系を乱すものとして設立に反対した。それを、農山漁村経済更生運動を推進した小平権一(後に農林次官)が、「あんなもの、頼母子講(タノモシコウ)に毛が生えたようなものですよ」と煙に巻いて認めさせた。大きな頼母子講になったものである。

 

GHQが完全解体を目指した農協が生き残った理由

この二つの組織が、第2次大戦中、統制団体“農業会”として統一される。農業会は、農業の指導・奨励、農産物の一元集荷、農業資材の一元配給、貯金の受け入れによる国債の消化、農業資金の貸付けなど、農業・農村の全てに関係する事業を行う国策代行機関だった。

終戦直後の食糧難の時代、農家は高い値段がつくヤミ市場に、コメを流してしまう。そうなると、貧しい人にもコメが届くように配給制度を運用している政府にコメが集まらない。このため、政府は農業会を農協に衣替えし、この組織を活用して、農家からコメを集荷させ、政府へ供出させようとしたのである。これがJA農協の起こりである。

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向は、戦時統制団体である農業会は完全に解体するとともに、農協は加入・脱退が自由な農民の自主的組織として設立すべきだというものだった。農林省の中にも、そうした正論はあった。しかし、戦後の食料事情は、そのための時間的な余裕を与えなかった。こうして農協は農業会の「看板の塗り替え」に終わった。

 

2に続く・・・

スマート・テロワール協会とNPO法人信州まちづくり研究会の顧問を務めて頂いて

いる 獨協大学教授北野収(しゅう)先生が2024年1月に出版された

エッセイ集
「私の中の少年を探しに―ある「農学者」が回想する昭和平成」


から、これが纏めであろうと感じた最終章「私について」から、

「農学士でよかった」を、ご本人のご了解を頂戴して掲載致しました。

 

「農学者とは何者か。それは、自然環境、農業生産という次元だけでなく、社会的、

政治経済的、思想信条的にも「エコロジーの視点」をもち、人と自然との関係性を

忘れない者である。」

 

当NPOでは、2022年度から「高校生に農学を勧める」という活動を

進めていますが、その活動の一環として東信地域の高等学校に

この著書を、寄贈させていただきました。

 

ご意見を頂戴できれば嬉しいです。   
 

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農学士でよかった


 会社員になりたてのころ、大学のことを尋ねられるのがたならなく苦痛だった。特に「何を勉強していたか」について。その理由は自分が農学士だったからである。

 一九九一年以前は、経済学士、文学士、家政学士など、大学学部名がほぼそのまま学士称号の名称になっていた。現在では、「学士(〇〇〇)」というような表記になり、「〇〇学士」(あるいは「〇〇博士」)という名称は使わない。学士の次にくるカッコの中に入る言葉も細分化され、その数は数百にものぼるという。「〇〇学士」という古い名称の場合、とくに自然科学=理系の人間にとっては、学士称号がその人のアイデンティティの一部になる。たとえば、同じ土木工学でも工学士(土木工学)と農学士(農業土木)との違い、同じく植物や動物や昆虫を扱うにも理学士(生物学一般)と農学士(作物学、畜産学など)との違い、さらには、経済学士と農学士(農業経済)との違いである。実際に学ぶ内容にそれほど決定的な違いはないが、アイデンティティと社会的認知と受容が決定的に異なった。
 

 現在でも農学系学部を有する大学はそれほど多くはないが、あの当時、どの大学でも農学部は一番入りやすい底辺学部だった。難関で知られる旧帝大においてですら、入学後に学部振り分けをする東大や北大を除き、農学部は当該大学では一番入りやすいとされていた。まして、中堅以下の私大農学系に行くということは、当の本人にとってはとても肩身の狭いことだった。当時の受験業界では、農学部(農業経済を含む)は理工学部(工学部、理学部)や経済学部に落ちた人が行くところだと思われていた。偏差値的には農学系の中の別格であった獣医学部・学科ですら、医学部・歯学部のすべり止めのように思われていた時代だった。


 農学という分野は不思議な世界である。動植物や土壌や水資源や生態系や食料に関する諸分野(作物学、土壌学、畜産学、水文学、農業機械学、農業土木工学、林学、林産学、食品科学など)のみならず、建築学(農村計画論)、経営学(農業経営学)、経済学(農業経済学)、教育学(普及教育論)、社会学(農村社会学)、法学(農業法)、衛生学(獣医、畜産)など、あらゆる学問が同居する小宇宙の様相を呈している。近年は、それらに加えて、バイオテクノロジー、アグリツーリズム、テロワール研究など、最新の研究ニーズも加わった。自分の専門が何であれ、農学士であることを自覚することは、この小宇宙の惑星のどれかの住人であり、宇宙が「小さい」だけに他の惑星とのかかわりが理解しやすくなる。つまり、世界や人々の営みに関する知の体系を俯瞰的に捉えるには、実は好都合なのだ。私がこのことを自覚したのは、実は「外国語学部」に職を得た後のことだ。ムラの外に出てみて初めて、農学という小宇宙の素晴らしさに気づいた。

時代は変わり、「農学士」いや「学士(農学)」は絶滅危惧種とはいわずとも、マイナーな存在になってきた。カッコの中の表記は、生物資源(科)学、生命環境学、環境科学など多様化してきている。時代の要請を反映させたといえば、そうかもしれない。そして今では、これらの学部は人気学部になった。そのことは嬉しいが、心配な部分もある。「農」という言葉は、それ自体に「人」と「自然」の概念を一体的に包摂する。しかし、「生命」「環境」「資源」などの言葉には、人からみた客体としての「何か」、つまり、人と自然を分けたようなニュアンスがある。私は「農」という言葉を安易に別の何かに置き換えてはいけないと思う。この懸念を高校生がどれだけ理解できるかは、心もとない。


 大学進学以来四〇数年間、私は自分が何者かを模索してきた。役人時代は、農業経済職だったからエコノミストだと思うようにした。研究者に転じてからは、社会学をかじったり、政治経済学(ポリティカルエコノミー)に傾倒した。比較的最近では思想哲学に興味がでてきたりして、その都度アイデンティティが揺らいだ。常に「農」を遠ざけてきた。しかし今では、自分は広い意味での農学者なのだという確信をもつに至った。農学者とは何者か。それは、自然環境、農業生産という次元だけでなく、社会的、政治経済的、思想信条的にも「エコロジーの視点」をもち、人と自然との関係性を忘れない者である。


 今では自信をもってこう宣言できる。「僕は農学士」。最高にクールだ。

 

                              北野収

            

           (参考)北野教授の経歴・業績    本のご紹介

                        

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スマート・テロワール協会とNPO法人信州まちづくり研究会の顧問を務めて頂いて

いる 獨協大学教授北野収(しゅう)先生が2024年1月に出版された

エッセイ集
「私の中の少年を探しに―ある「農学者」が回想する昭和平成」


から、これが纏めであろうと感じた最終章「私について」から、

「霞が関大学中退」を、ご本人のご了解を頂戴して掲載致しました。

 

日本のエリート社会の内実は私達庶民には想像が着きません。

その理解が深まると思うからです。

 

当NPOでは、2022年度から「高校生に農学を勧める」という活動を

進めていますが、その活動の一環として東信地域の高等学校に

この著書を、寄贈させていただきました。

 

ご意見を頂戴できればありがたいです。

 

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霞が関大学中退


 私にとっての役人時代は「霞が関大学」という学校だった。それが学校としてよいところだったかどうかは分からない。ただ、学んだことは計り知れない。政府や官僚機構の悪い部分だけでなく、封建的ともいえるカースト制度・身分制度、のなかで、それぞれの立場で悩み努力する生身の人間の尊さについても学んだような気がする。

 

 私は三年遅れて入省したから、この文章を書いている時点では、同期入省の仲間たちはまだ還暦には達していない。私同様に途中で辞めていった者も多い(相当数が大学教授になっている)。私たちのような技術系キャリアの(事実上の)最高ポストである地方農政局長に就いた人もいれば、国の地方組織の各所で管理職として奮闘している人もいる。「特権さん」と呼ばれるキャリア事務官の多くは、既に「勇退」という形で役所を去り、残った人は本省局長、地方農政局長として奮闘している。本省に残った人のうちの誰かが、まもなく事務次官になるはずだ。私は課長補佐級の専門官で役所を辞めてしまったから、その先の本当の管理職の仕事の実際は知らない。ただ、予算、法令改正、国会対応、審議会など、役人のイロハは経験させてもらった。

 

 霞が関の新人の仕事は「キョーレツ」の一言である。私が奉職した省では、各局の筆頭課の総括部門に配属される新人を「廊下トンビ」と呼んでいた。一応自分の座席はあったが、ほとんど席に座る暇がないほどこき使われる。インターネットが普及した現在では、ありえない話だが、一九八〇~九〇年代のお役所は紙に書かれた情報をもって省内のいろいろなフロアを飛び回り、幹部の人に見せて赤字訂正を受けたり、大臣官房各課に行って国会その他から送られてきた紙情報や外電を大量にコピーして、部局内の各課室や上司である係長、班長、総括、課長、部長・審議官、局長に配り歩いた。当時、管理職の大半は手書きで仕事をしていたから、手書きのメモをワープロで清書するような仕事も大量にあった。キャリア組の新人は、最初の二年間このような雑用のすべてを引き受けることになる。今から思えば、人間が「電子メール」をしているようなものだった。そこで想定されていることには、いくつかの次元がある。第一に、一般に難易度が高いとされている公務員試験とそれへの準備=勉強が当該コミュニティへの加入儀礼だとすれば、新人に課される膨大な労務はその先に進むための通過儀礼の意味をもつ。第二は、より実用的な次元での意味である。単なる「子どもの使い」的な配達業務をするのではなく、こうした雑用は幹部間、部局内外、他省庁間の間でやりとりされる情報をすべて把握するための勉強あるいは修行であった。

 

 このような局レベルの総括業務を一~二年やれば、自分の部局のみならず、予算、国会対応、審議会対応、議員対応、さらには霞が関のメカニズム、永田町との関係に関するメカニズムが、ある程度見えるようになる。そして三年目以降は、別の部局の業務課室(原課)に異動し、その課室が所管する法令を運用したり、改正に携わったり、政策の立案に関わったりする。その後は、海外勤務、地方への出向、海外留学、他省庁出向などいくつかのパターンを経て、本省の係長、課長補佐になる。実際の政策は、課長補佐レベルで企画立案されることが多かった。本省の課長はもはや一国一城の主であり、課長補佐や係長が準備した資料に基づいた政治家や省庁の大幹部とのやりとりが主な仕事になる。

 

 以上は読者への「基礎情報」だ。私の初任部署の上司であった総括(筆頭課長補佐)のKさんから受けた訓示は次のようなものであった。役人の仕事はバランス感覚が重要。大局的な見地から、政治家、業界、国民を捉え、落としどころを考える。役人の仕事は上手くいっても誰からも褒められない。上手くいかなければ批判される。そういうものだ、と。

 

 国会答弁書は数えきれないほど書いた。答弁書の後ろに添付する参考資料、お付きの幹部が持参する資料集の準備もした。当時、既にワープロからウィンドウズPCへの移行の過渡期に入っていたから、多くの最終文書はプリンタで印字されていた。だが、手書きの方が安心するという大臣もいて、大臣が変わるごとに手書きになったり、ワープロに戻ったりした。政治家には漢字が読めない人がいるから、必ずルビをふるようにと言われた。当時の答弁書はB5縦書きだった。黒のフェルトペンで、幼児向け絵本にある文字よりもさらに大きな文字で、答弁を手書きした。文の途中でページが変わると読む人(大臣)の答弁が止まってしまうばかりか、どこを読んでいるかわからなくなってしまった大臣が過去にいたそうで、ページ跨ぎの改行はしてはならないという掟があった。慣れないころは、何度も手書きで書き直した。自分の部局に問いがあたる(答弁を作成する)ことは、終電で帰宅することができないことと同意であった。眠い目をこすりながら、翌日いつもより早く出勤し、国会議事堂で、自分が書いた答弁が使われるのを傍聴しにいったこともある。結局、その質問が出ずに、自分が書いた答弁がスルーされたことも幾度もあった。

 

 官庁の中の官庁である大蔵省(現財務省)の主計局への予算案の説明は年末の大仕事であった。主計官以下係長、係員に至るまで精鋭中の精鋭であるこの集団は、各省庁の各部局の次年度予算案を審査し査定する。各省庁は説明方々にお願いに上がるわけだが、その説明資料や説明の仕方については、最大限の注意を払う。説明に上がるための呼び込みは、大概、深夜あるいは明け方になる。一~二日待たされることもざらにある。主計局の職員は自分が担当する省庁部局の政策や事業内容について、徹底的に勉強している。おまけに弁が立つ人が多い。次々に鋭い指摘をするが、こちらも必死になって説明する。そして最後は、深くお辞儀をして「よろしくお願いします」ということになる。私は課長や総括のお供だったが、深夜の薄暗い大蔵省の廊下と、説明に入った時のあの緊張感は忘れられない。ある意味、彼らはとても傲慢な組織である。ただ、エリート中のエリートといわれる人の迫力と頭脳の切れ味に間近で接することができたことは、お金では買えない経験だった。

 

 公共事業を所管しそれを地方に配分する権限をもつ部署に配属されたことがあった。実際の配分の権限のほとんどはキャリア土木技官が握っている。彼らと一緒に、北は網走から南は沖縄の離島まで、現地視察やら新規政策の説明会やらで頻繁に地方に出向いた。その時にあらためて思ったのは、国の権限の強大さだった。私のような係長でも、本省から来た人間に対して、県や市町村のカウンターパートの人たちはとても気を遣っていた。現在とは違い、バブル経済の時代は官官接待にも大らかだったから、やましいことはしていないが、美味しい食事をご馳走になったことは認める。行き過ぎたいただき物をお断りし、お返しするような場面もあった。年末の地方からの陳情合戦も凄まじかった。今ではそのようなやりとりはなくなり、コーヒー一杯でも自腹で払っていると聞く。言いたいことは陳情や接待についてではなく、地方における公共事業の存在の大きさと、その査定(箇所付け)の権限を持つ役人の権限の大きさだ。特権事務官のみならず、このような大きな権限を持つキャリア技官たちは、人に頭を下げられることがまるで空気のようになってしまう。議員先生と審議会の先生と上司には自分が頭を下げるが、それ以外の人間、ひいては国民は自分たちに頭を下げるものと錯覚してしまう者もいる。何を隠そう私自身、そのような感覚に陥りかけたことがあることを認めざるを得ない。しかし、人が役人に頭を下げるのは、その役人の人格や能力に対してではない。ポストとその権限に頭を下げているのだ。役人を辞めて、一介の大学院生に戻った時、私はその当たり前のことに気づかされた。

 

 「霞が関大学」での一〇年弱の学びについては書きたいことはまだまだある。中央官庁の役人(いわゆる「官僚」)の具体的な仕事の最低限のイメージをお伝えするなら、以上の話で事足りるということにしよう。今、振り返って自分の役人時代を「総括」すれば、完全なる負けいくさ、負け試合だったといわざるを得ない。ただし、一方的にノックアウトされたわけではなかったと思う。何かを掴んた意味のある敗北だったと信じている。自虐的な物言いかもしれないが、私は「みにくいアヒルの子は白鳥にはなれない」と思った。それは、同じキャリア組でも、特権事務官と技術系(技官および技官相当の事務官)の間にある越えられない格差問題についてではない。もっと手前にあるプリミティブで幼稚な感覚だ。高校、大学とエリートとは正反対の「落ちこぼれ」を地で来た私が紛れ込んでしまった霞が関の官僚機構は、事務官、技官を問わず、私から見ればスーパーエリートたちの世界だった。自分の頭の出来や学歴を言い訳にするのはフェアではないが、彼らは私がそれまで接してきた人たちとは、良い意味でも、悪い意味でも、出来が全然違ったと思う。わかり易い例として、英語ひとつにしても、帰国生でもなければ、外国語学部卒でなくても、毎朝、英字新聞や在外公館や国際機関から来る公電を普通に読むことができる。少し集中して英語を勉強すれば、ハーバードやオックスフォードに留学できるくらいのスコアをクリアしてしまう。官僚に対する批判はたくさんある。官僚機構の硬直化した仕組みが時代に合わないともいわれている。人を人とも思わないような特権事務官もいなくはない。ただ、私が毎日間近でみた多くの国家エリートたちの仕事ぶりは、なかなか立派だった。少なくとも、一人一人の能力はとてつもなく高い。

役人の仕事は私には向いていなかった。国家エリートたちと競争できる実力もなかった。もし続けていたとしても、間違いなくパッとしない役人人生だったと思う。かくして、三五歳の時、私は「霞が関大学」を中退した。

 

 様々な問題を抱えつつも、戦後の復興と高度経済成長を支え、古きよき昭和の香りをほのかに漂わせた「霞が関大学」は、官邸主導を是とする事実上のポスト五五年体制としての「二〇一二年体制」(中野晃一氏)の登場とその貫徹の中で、かつての役割と存在感を喪失した。


北野収

                      
              (参考)北野教授の経歴・業績    本の説明
                           

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