スマート・テロワール協会とNPO法人信州まちづくり研究会の顧問を務めて頂いて
いる 獨協大学教授北野収(しゅう)先生が2024年1月に出版された
エッセイ集
「私の中の少年を探しに―ある「農学者」が回想する昭和平成」
から、これが纏めであろうと感じた最終章「私について」から、
「霞が関大学中退」を、ご本人のご了解を頂戴して掲載致しました。
日本のエリート社会の内実は私達庶民には想像が着きません。
その理解が深まると思うからです。
当NPOでは、2022年度から「高校生に農学を勧める」という活動を
進めていますが、その活動の一環として東信地域の高等学校に
この著書を、寄贈させていただきました。
ご意見を頂戴できればありがたいです。
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霞が関大学中退
私にとっての役人時代は「霞が関大学」という学校だった。それが学校としてよいところだったかどうかは分からない。ただ、学んだことは計り知れない。政府や官僚機構の悪い部分だけでなく、封建的ともいえるカースト制度・身分制度、のなかで、それぞれの立場で悩み努力する生身の人間の尊さについても学んだような気がする。
私は三年遅れて入省したから、この文章を書いている時点では、同期入省の仲間たちはまだ還暦には達していない。私同様に途中で辞めていった者も多い(相当数が大学教授になっている)。私たちのような技術系キャリアの(事実上の)最高ポストである地方農政局長に就いた人もいれば、国の地方組織の各所で管理職として奮闘している人もいる。「特権さん」と呼ばれるキャリア事務官の多くは、既に「勇退」という形で役所を去り、残った人は本省局長、地方農政局長として奮闘している。本省に残った人のうちの誰かが、まもなく事務次官になるはずだ。私は課長補佐級の専門官で役所を辞めてしまったから、その先の本当の管理職の仕事の実際は知らない。ただ、予算、法令改正、国会対応、審議会など、役人のイロハは経験させてもらった。
霞が関の新人の仕事は「キョーレツ」の一言である。私が奉職した省では、各局の筆頭課の総括部門に配属される新人を「廊下トンビ」と呼んでいた。一応自分の座席はあったが、ほとんど席に座る暇がないほどこき使われる。インターネットが普及した現在では、ありえない話だが、一九八〇~九〇年代のお役所は紙に書かれた情報をもって省内のいろいろなフロアを飛び回り、幹部の人に見せて赤字訂正を受けたり、大臣官房各課に行って国会その他から送られてきた紙情報や外電を大量にコピーして、部局内の各課室や上司である係長、班長、総括、課長、部長・審議官、局長に配り歩いた。当時、管理職の大半は手書きで仕事をしていたから、手書きのメモをワープロで清書するような仕事も大量にあった。キャリア組の新人は、最初の二年間このような雑用のすべてを引き受けることになる。今から思えば、人間が「電子メール」をしているようなものだった。そこで想定されていることには、いくつかの次元がある。第一に、一般に難易度が高いとされている公務員試験とそれへの準備=勉強が当該コミュニティへの加入儀礼だとすれば、新人に課される膨大な労務はその先に進むための通過儀礼の意味をもつ。第二は、より実用的な次元での意味である。単なる「子どもの使い」的な配達業務をするのではなく、こうした雑用は幹部間、部局内外、他省庁間の間でやりとりされる情報をすべて把握するための勉強あるいは修行であった。
このような局レベルの総括業務を一~二年やれば、自分の部局のみならず、予算、国会対応、審議会対応、議員対応、さらには霞が関のメカニズム、永田町との関係に関するメカニズムが、ある程度見えるようになる。そして三年目以降は、別の部局の業務課室(原課)に異動し、その課室が所管する法令を運用したり、改正に携わったり、政策の立案に関わったりする。その後は、海外勤務、地方への出向、海外留学、他省庁出向などいくつかのパターンを経て、本省の係長、課長補佐になる。実際の政策は、課長補佐レベルで企画立案されることが多かった。本省の課長はもはや一国一城の主であり、課長補佐や係長が準備した資料に基づいた政治家や省庁の大幹部とのやりとりが主な仕事になる。
以上は読者への「基礎情報」だ。私の初任部署の上司であった総括(筆頭課長補佐)のKさんから受けた訓示は次のようなものであった。役人の仕事はバランス感覚が重要。大局的な見地から、政治家、業界、国民を捉え、落としどころを考える。役人の仕事は上手くいっても誰からも褒められない。上手くいかなければ批判される。そういうものだ、と。
国会答弁書は数えきれないほど書いた。答弁書の後ろに添付する参考資料、お付きの幹部が持参する資料集の準備もした。当時、既にワープロからウィンドウズPCへの移行の過渡期に入っていたから、多くの最終文書はプリンタで印字されていた。だが、手書きの方が安心するという大臣もいて、大臣が変わるごとに手書きになったり、ワープロに戻ったりした。政治家には漢字が読めない人がいるから、必ずルビをふるようにと言われた。当時の答弁書はB5縦書きだった。黒のフェルトペンで、幼児向け絵本にある文字よりもさらに大きな文字で、答弁を手書きした。文の途中でページが変わると読む人(大臣)の答弁が止まってしまうばかりか、どこを読んでいるかわからなくなってしまった大臣が過去にいたそうで、ページ跨ぎの改行はしてはならないという掟があった。慣れないころは、何度も手書きで書き直した。自分の部局に問いがあたる(答弁を作成する)ことは、終電で帰宅することができないことと同意であった。眠い目をこすりながら、翌日いつもより早く出勤し、国会議事堂で、自分が書いた答弁が使われるのを傍聴しにいったこともある。結局、その質問が出ずに、自分が書いた答弁がスルーされたことも幾度もあった。
官庁の中の官庁である大蔵省(現財務省)の主計局への予算案の説明は年末の大仕事であった。主計官以下係長、係員に至るまで精鋭中の精鋭であるこの集団は、各省庁の各部局の次年度予算案を審査し査定する。各省庁は説明方々にお願いに上がるわけだが、その説明資料や説明の仕方については、最大限の注意を払う。説明に上がるための呼び込みは、大概、深夜あるいは明け方になる。一~二日待たされることもざらにある。主計局の職員は自分が担当する省庁部局の政策や事業内容について、徹底的に勉強している。おまけに弁が立つ人が多い。次々に鋭い指摘をするが、こちらも必死になって説明する。そして最後は、深くお辞儀をして「よろしくお願いします」ということになる。私は課長や総括のお供だったが、深夜の薄暗い大蔵省の廊下と、説明に入った時のあの緊張感は忘れられない。ある意味、彼らはとても傲慢な組織である。ただ、エリート中のエリートといわれる人の迫力と頭脳の切れ味に間近で接することができたことは、お金では買えない経験だった。
公共事業を所管しそれを地方に配分する権限をもつ部署に配属されたことがあった。実際の配分の権限のほとんどはキャリア土木技官が握っている。彼らと一緒に、北は網走から南は沖縄の離島まで、現地視察やら新規政策の説明会やらで頻繁に地方に出向いた。その時にあらためて思ったのは、国の権限の強大さだった。私のような係長でも、本省から来た人間に対して、県や市町村のカウンターパートの人たちはとても気を遣っていた。現在とは違い、バブル経済の時代は官官接待にも大らかだったから、やましいことはしていないが、美味しい食事をご馳走になったことは認める。行き過ぎたいただき物をお断りし、お返しするような場面もあった。年末の地方からの陳情合戦も凄まじかった。今ではそのようなやりとりはなくなり、コーヒー一杯でも自腹で払っていると聞く。言いたいことは陳情や接待についてではなく、地方における公共事業の存在の大きさと、その査定(箇所付け)の権限を持つ役人の権限の大きさだ。特権事務官のみならず、このような大きな権限を持つキャリア技官たちは、人に頭を下げられることがまるで空気のようになってしまう。議員先生と審議会の先生と上司には自分が頭を下げるが、それ以外の人間、ひいては国民は自分たちに頭を下げるものと錯覚してしまう者もいる。何を隠そう私自身、そのような感覚に陥りかけたことがあることを認めざるを得ない。しかし、人が役人に頭を下げるのは、その役人の人格や能力に対してではない。ポストとその権限に頭を下げているのだ。役人を辞めて、一介の大学院生に戻った時、私はその当たり前のことに気づかされた。
「霞が関大学」での一〇年弱の学びについては書きたいことはまだまだある。中央官庁の役人(いわゆる「官僚」)の具体的な仕事の最低限のイメージをお伝えするなら、以上の話で事足りるということにしよう。今、振り返って自分の役人時代を「総括」すれば、完全なる負けいくさ、負け試合だったといわざるを得ない。ただし、一方的にノックアウトされたわけではなかったと思う。何かを掴んた意味のある敗北だったと信じている。自虐的な物言いかもしれないが、私は「みにくいアヒルの子は白鳥にはなれない」と思った。それは、同じキャリア組でも、特権事務官と技術系(技官および技官相当の事務官)の間にある越えられない格差問題についてではない。もっと手前にあるプリミティブで幼稚な感覚だ。高校、大学とエリートとは正反対の「落ちこぼれ」を地で来た私が紛れ込んでしまった霞が関の官僚機構は、事務官、技官を問わず、私から見ればスーパーエリートたちの世界だった。自分の頭の出来や学歴を言い訳にするのはフェアではないが、彼らは私がそれまで接してきた人たちとは、良い意味でも、悪い意味でも、出来が全然違ったと思う。わかり易い例として、英語ひとつにしても、帰国生でもなければ、外国語学部卒でなくても、毎朝、英字新聞や在外公館や国際機関から来る公電を普通に読むことができる。少し集中して英語を勉強すれば、ハーバードやオックスフォードに留学できるくらいのスコアをクリアしてしまう。官僚に対する批判はたくさんある。官僚機構の硬直化した仕組みが時代に合わないともいわれている。人を人とも思わないような特権事務官もいなくはない。ただ、私が毎日間近でみた多くの国家エリートたちの仕事ぶりは、なかなか立派だった。少なくとも、一人一人の能力はとてつもなく高い。
役人の仕事は私には向いていなかった。国家エリートたちと競争できる実力もなかった。もし続けていたとしても、間違いなくパッとしない役人人生だったと思う。かくして、三五歳の時、私は「霞が関大学」を中退した。
様々な問題を抱えつつも、戦後の復興と高度経済成長を支え、古きよき昭和の香りをほのかに漂わせた「霞が関大学」は、官邸主導を是とする事実上のポスト五五年体制としての「二〇一二年体制」(中野晃一氏)の登場とその貫徹の中で、かつての役割と存在感を喪失した。
北野収
(参考)北野教授の経歴・業績 本の説明
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