田中角栄 の 日本列島改造論の開発・住宅編

日本の”まちづくり”、住宅地開発と住宅・施設建築の混迷の歴史が解る

その混迷のど真ん中をもみくちゃにされながら歩んだ

一人の建設官僚が綴った記録です。

 

不動産、或いは建築業以外の人には難しいかも知れません。

講座と同時に「NPO法人住宅生産性研究会」の

すばらしいホームページを広めたいと思っております。

特に「世界の住宅と資産形成」には、

理想の開発と住宅のあり方が示されています。

 

 

皆さんから拡散をお願い申し上げます。

本文10ページと付属文書5ページです。

 

~ 一部抜粋 ~

「丹下健三のオリンピック施設の評価は、「欠陥建築からモダニズム建築」に大逆転された。丹下健三は、黒川紀章と菊竹清訓の二名の若手建築家を広報担当に使い、「世界に着目されるモダニズム建築家に挑戦しようとするならば、建築基準法違反に挑戦するべきだ」と違反建築物を促すようなキャンペーンを張った。その主張は、建築基準法改正に取り組む住宅局への批判となり、違反建築を煽る丹下と住宅局との対立が激化した。丹下らモダニズム建築家は、違反建築事故を起こしても「造反有理」の毛沢東理論で違反建築を煽り唆した。

・・・2人の建築士処分を決定させた私は更迭され、3年間国外追放された。」

 

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本文

ボウクスの「3Cプロジェクト」の意義

〜戦後日本における「新都市計画法立法迷走史」の背景〜

 

 

2024年2月21日

NPO法人住宅生産性研究会(HICPM) 

元理事長 戸谷英世

 

はじめに:ガーデンシテイの「夢の実現」と

            国の都市計画法に倣う「夢の挫折」

 

ボウクス社(社長・内海健太郎)は、田園調布に2×4タウンハウス「3Cプロジェクト」を完成させた。このプロジェクトは、(1)都市計画法と建築基準法の混乱した行政、(2)建設省・国土交通省による都市計画法立法・施行及び行政の無責任な対応、(3)東京都の違法な都市計画行政の三重苦に悩まされ、工事は混乱を余儀なくされた。しかし、ボウクス社は理不尽な立法や行政に対処し、最終的にはボウクス社の信ずる「米国のニュー・アーバニズムによるタウンハウス事業」を達成した。その結果、ボウクス社は、木造・ファイアーコンパートメント(防耐火建築)技術を採り入れ、高い都市防災性能を有する美しい街並みを実現させた。大田区の都市計画行政は、NAHBの経験を生かした「3Cプロジェクト」を、渋沢栄一が始めた田園調布の街づくりを進める有益な住宅・都市資産形成事業と認めた。

また、東京都の作成した『開発許可の手引き』を受け入れた事業と評価されて実施された。

本講座は、ボウクスの3Cプロジェクトを見学する機会に合わせ、あらためて米国の住宅都市環境開発技術の高さを再確認させる機会にした。それは直接的にはエベネザー・ハワードによるガーデン・シティに始まる近代住宅都市計画の積み上げられた文化の成果に、クラッシック文化による建築環境の造形美が反映されている。3Cプロジェクトと比較し、わが国の浅薄な都市計画法の理論・立法と行政の貧困な取り組み経緯と、国土交通省・内閣法制局の無責任さと都市計画行政の貧困さとを、都市計画法の立法経緯に立ち返って解説する。

 

1.「英国の都市計画法」に倣った田中角栄首相が夢見た都市計画法案

 

田中角栄による都市計画法の立法はわが国の都市計画行政を混乱させてきたが、そもそもの歴史を辿ると、田中角栄の首相時代(1972−74年)の始まりにまで辿り着く。その当時、田中角栄のブレーンを構成したのは旧内務省官僚の思想を引き継ぐ建設官僚達である。彼らの進言を採り入れたことにより、新しい政策形成が始まった。その進言とは、田中角栄著『日本列島改造論』(1972年)を実現するためには、英国の都市計画法に倣った「新都市計画法案」の立法は不可欠とするものであった。しかし、当時の内閣法制局は、英国の都市計画法に倣った立法は日本の法制度を無視するものと判断し、それを強行させては行政法を混乱させる危険性があり、わが国の保守勢力は同法案を阻止しなければならないと考えた。

 

そこで内閣法制局は、立法不可能の意向を建設省に伝えたところ、建設省都市局は立法妨害と抗議し、住宅局は内閣法制局にその理由を問い合わせてきた。それに対して法制局は、「新都市計画法案は、既存の法律とは未調整の状態にあり、この状態では上程できない」旨を回答した。つまり、都市計画法と建築基準法との関係が不明僚な点が問題とのことだった。より深く理由をさぐると、新都市計画法案は英国の都市計画法を模範としたため、「土地と建築物を一体の不動産」とみなしたが、わが国の「民法」では、「土地と建築物とを別の不動産」としていた。そのため、新都市計画法案は「民法」の原則と矛盾することが指摘された。

 

このような問題を抱える法案を立法し・所管する建設省と法務省との間で立法前の調整作業が必要だった。しかし、両省の法案調整はなされていなかった。そのため内閣法制局は、「国会上程前に両省間の事前調整ができなければ、新都市計画法案の上程に向けての法令審査は始められない」と建設省に通告した。しかし、法務省の立法能力と法律施行の経験を有し、建設省のそれを絶対量として上回り、建設省の希望する立法に向けての法案調整はできる見込みはなかった。その結果、建設・法務両省の調整ができなければ、同法案の審査受理はできないとして、内閣法制局は法案の審査作業を中止するよう審査部局に勧告した。

 

2.内閣法制局を中心にした国家権力としての保守勢力の反撃

 

こうして内閣法制局を中心とした政府内の保守勢力は、新都市計画法案は既存の行政法秩序を破壊するものと危険視する立場をとった。他方、旧内務省系の都市計画官僚は、田中角栄著「日本列島改造論」を実現するためには、戦後経済復興を取り込んだ国土計画が必要であり、そのためには英国の都市計画法が採用されるべきと考えた。英国の都市計画法は、国土開発上、国家権力を発揮するために不可欠な法律で、その法律が建設省で準備されていると建設省事務官僚から田中角栄は信じ込まされていた。そのため、旧内務省の流れを汲む戦前の「都市土木行政」を念頭に置きつつ、都市計画を整備する方策を検討した。この新しい都市計画行政では、都市土木行政の下部に住宅・建築行政を補助的な行政組織として組み込む都市づくり制度を、「旧内務省に倣った都市計画」の仕方と位置づけて取り組んでいた。

 

田中角栄が自らの国土構想をその著書『日本列島改造論』にまとめたのは前述のとおりである。田中は彼自身の著した『日本列島改造論』を実現するには、法制度を背景にした政治力を使えば、既存行政や産業界も押し切れると考えていた。実際に保守勢力は田中のやり方を阻止できず、新都市計画法案の立法作業は田中の計画どおりに一挙に進められ、国会上程直前にまで到達していた。その勢いは保守勢力の予測を裏切る速さで推進された。しかし、政府内部の保守勢力は同法案の立法を阻止すべく、内閣法制局にその対策を検討させた。そして、新都市計画法案と英国の都市計画法及び都市計画理論の違いも分からない状態で、「新都市計画法案は国内法とは未調整である」との理由で、立法は上程直前に食い止められた。

 

また、内閣法制局は同法案が「民法」と矛盾している点と、建設省と法務省との間で立法前協議が未調整の事実も指摘した。よって内閣法制局は新都市計画法案の立法は無理と局内で判断を下した。ただし、内閣法制局から田中には、同法案の成立が必要であれば、「民法」改正することもあり得ると譲歩の意向も示された。最終的には田中は、新都市計画法案の立法を強行せず、内閣法制局の法案処理方針に従った。立法を強行すれば、司法、行政、立法の保守勢力を巻き込んだ混乱が予想され、田中は産業界を含む国政への影響を危惧した。

 

当時施行されていた都市計画法は、建築基準法と姉妹法の関係と説明されていた。現在と同様、都市計画法は土地利用のための建築計画を扱い、他方、建築基準法は都市計画法に定められた土地利用計画について建築物の規制」を扱っていた。これに対して、新都市計画法案は、英国の都市計画法に倣ったため、「土地と建築物は一体の建築不動産」としていた。しかし、わが国の「民法」では、「土地と建築物とは別の不動産」と規定していた。よって、「民法」の規定に合わせて、建築基準法では「建築物」を規制対象とし、「土地」は新都市計画法案で扱うことになり、建築基準法の規制対象にはしなかった。ここに、英国に倣った新都市計画法案と、「民法」との間の矛盾が解決されるべき問題とされた。もし、新都市計画法案の立法を強行していたら、「民法」との間で、建築不動産(土地を建築加工した物)の定義に矛盾が顕在化する。そうすれば、さらに司法・行政・学会・法曹界の土地と建築物の扱いに矛盾を発生させ、政治の混乱を惹き起こす、と法制局は危惧したのだった。

 

3.住宅官僚となった私(戸谷)と、

        大村巳代治を救済した田中角栄の「都市政策大綱」

 

公営住宅法は1951年に立法されたが、この法律は、そもそも1950年に朝鮮戦争が勃発して以来、米軍の実質的な兵站基地と化した戦後日本において、急速に高まった軍需需要に応え、軍需産業労働者を大量に集め・収容し、旧日本軍の兵站基地の復興が要求されていた。しかし、1947年に施行した平和憲法が戦争放棄を原則としていたから、軍需産業を支援するような法律は、憲法違反の疑義が生じかねなかった。それを意識した政府は、野党と世論の追及を避け、政府立法の途は選ばず、英国の社会福祉法であった公営住宅法と銘打った議員立法で、国会の全会一致で成立させた。田中角栄は提案議員の中心人物の一人であり、国会審議時の建設省住宅局長が、旧内務省社会局OBの技術官僚・大村巳代治であった。

 

大村住宅局長は当時の国会にて、共産党議員から、「わが国の住宅統計によれば、住宅事情は年々悪化しているのではないか」と追及された。この質問は、国勢調査等の住宅統計調査を根拠にした質問で正鵠を得ていたため、大村局長は「ご説ごもっとも」と即答した。この答弁を聞いた自民党は「共産党の主張を認めた政府委員は、その行政責任を取れ」と追及し、大村住宅局長は、就任後僅か60日で更迭された。社会党はその直後、社会党の公認した国会議員候補として大村巳代治を担ぎ出した。その結果、大村は落選した。とはいうものの、住宅事情についての質問に潔い答弁をした大村に、自民党議員田中角栄は信頼観を深めた。

 

公営住宅を全国的に展開するため、住宅局が㈳日本住宅協会を創設すると決まると、田中は大村を協会専務理事に推薦した。同協会は全国の公営住宅事業主体を会員とする組織である。やがて田中と大村との繋がりで住宅官僚と住宅協会の人脈は深まり、住宅協会は住宅行政の一部を担う住宅局内部組織に成長した。具体的には、田中は大村を使い住宅行政と住宅産業界の情報を集め、行政・産業・政冶の関係を密にした。そして住宅局は住宅協会を「住宅局内部における産業政策の隠れ蓑組織」として活用した。住宅局は住宅協会を使い「プレハブ建築協会」の創設準備をし、又、「BL部品制度」の原型である「KJ(公共住宅用規格部品)制度」も住宅局住宅建設課で企画し、住宅協会の業務として実施した。こうして大村は、元住宅局長の人脈の上に住宅産業界と自民党との業務双方の繋ぎ役を果たしていた。

 

私が住宅官僚になった当時、大村は住宅協会専務理事で機関誌『住宅』の編集長であった。私は、住宅局職員でいて『住宅』の編集委員だった。その後私は住宅局住宅地区改良係長になり、未開放部落問題や山谷・釜ヶ崎の不良住宅問題を担当した。そこで初めて私は、わが国の住宅政策が、スラム問題に役立っていないことに気づき、適正な住宅政策に改善すべく、労働省の統計調査から、「京浜地区の産業労働者の就労働時間と常住地と就労地との関係」を調べた。その調査結果から政府の住宅政策は労働者の就労実態から乖離した住宅政策しか採用していない実態を明らかにした。ここで発見した事実を住宅政策提案にまとめ、『アサヒジャーナル誌』(朝日新聞)に投稿した。労働者の労働条件に合った住宅政策提案論文は同誌に掲載された。その労働者の立場に立った新しい住宅政策の提案が話題になった。

 

その当時、自民党幹事長を務めていた田中角栄は、都市問題の解決策として『都市政策大綱』をとりまとめていたが、同「大綱」に住宅問題が欠落していることに田中自身が気付き、急遽、大村に連絡し、「住宅政策に精通した若手官僚を紹介するよう」求めた。大村と私とは雑誌『住宅』編集で頻繁に住宅政策を話し合う間柄だった。大村は、『アサヒジャーナル』誌が取り上げた私の住宅政策提案を知り、田中角栄に依頼されていた「都市政策大綱」へ住宅政策の提案者として私を田中に紹介した。その結果、私の論文は「都市政策大綱」の企画委員会で審議され、『職住近接論』と政策名が付けられ「大綱」に採択された。やがて首相となった田中は、『日本列島改造論』に国土全域に対する野望を公表したが、これは、「都市政策大綱」を国づくりに発展拡大させ、各省若手官僚の政策提案を汲み上げる形で『日本列島改造論』にまとめた。それを国土開発計画として展開するに当たり英国の国づくりを参考にし、国土政策を進める法制度として英国の都市計画法を国内法に取り入れることにした。

 

4.田中角栄が構想した「英国にならった都市計画法」

 

田中は、英国と同じような都市計画法を創れば、英国に並ぶ美しい都市の国を創れると考えた。そこで、旧内務省の都市計画官僚の流れを汲む官僚らの意見を聞き、また、都市計画に意欲を持つ官僚を建設省都市局と計画局に集め、立法作業を開始した。そして、「日本列島改造論」のヴィジョンを、経済企画庁計画官・下河辺淳の下で、全省庁の官僚の意見を収攬する形にて、「全国総合開発計画」(略称「全総」)にまとめさせた。「全総」では、全国都道府県において、地域計画及び都市計画を作成させることを目標とした。そこで、各省庁で「全総」の計画内容を吟味させ、「全総、2全総、3全総」と改訂作業を繰り返させた。さらに、計画実行には、都市計画レベルでの行政で、国家権力の裏打ちが不可欠と考えられたため、その制度として、英国の都市計画法にならった新都市計画法案の作成が取り組まれた。

 

こうして田中は、旧内務省の都市計画官僚や西欧の都市計画行政情報を持っている専門官僚を建設省都市局に集め、都市計画法の立法に取り組ませた。旧内務官僚は田中角栄に対し、英国の都市が優秀な理由は、優れた都市計画と都市計画法があると「ご進講」し、官僚と田中とは質疑応答を繰り返し、政策は具体化された。また、英国はその都市計画法の持つ「計画高権」により、都市計画の実現が担保されている説明に納得した。そこで田中は、都市計画法の立法と並行し『全総』を策定し、それを地域計画及び都市計画に具体化した。田中の基本的な考えは、英国と同じ都市計画法を使えば、都市計画は国家権力に裏打ちされた『全総』により、田中角栄著『日本列島改造論』のヴィジョンが実現できるとするものであった。

 

ただし、『全総』を具体化するに当たり、地域計画及び都市計画は実施段階では国民の権利と対立することが予想された。わが国では国の計画を実現するために、「土地収用法」と「行政代執行法」とが行使されてきた。国民の権利を収用し代執行をすれば、官民対立が激化する。この不安対して、田中角栄のブレーン達は英国の都市計画法に内在する「計画高権」によって官民の対立を解決でき、都市計画を円滑に実現できると田中に助言した。また、これは戦前に制定された都市計画法で参考にした「ドイツの都市建設法(バオゲゼッツ)」も同じ法理論と解説した。そこで田中は英国と同じ都市計画法を作る必要性に理解と確信を深めた。当時田中事務所に出入りする官僚から、「計画高権」が盛んに話題になっていた。

 

その後、英国に倣った新都市計画法案が準備されたとき、同法案は欧米の都市計画法が担保するのと同じ「計画高権」が付与される法律であり、その権限は新都市計画法案の施行者が行使できると説明された。また、わが国の都市計画決定は、「土地収用法による収用事業認定とみなされる法理論と同じ」とされた。その結果、「計画高権」とは、都市計画決定がなされた事業には、「改めて、土地収用法による事業認定を行う必要がない」とした理解が、独り歩きするようになった。欧米に倣った美しい都市の実現を目指す田中は、建設省を挙げて新都市計画法の立法作業に取り組むよう指示し、立法関係建設本省職員の略全員が、立法作業の成功報酬であるかのように、立法作業の前払いとして英国に長期研修派遣された。

 

英国の都市計画事業では、最初の行政処分は、「プランニング・パーミッション」(PP:建築不動産の「計画許可」)である。「計画許可」の効力は都市計画法で付与され、その計画許可の国家の担保能力は「計画高権」により裏づけられる。その手続きが都市計画法で決定される。当時の都市計画法立法関係者には「計画許可」の法律の構成が分かっていなかった。

建築基準法は、都市計画法の姉妹法であったが、都市計画決定自体は建築行政に直接登場する機会はなかったため、建築行政では「計画高権」に関係する話題は登場しなかった。

 

5.東京オリンピックのためのモダニズム建築と

              丹下健三による建築違反の助長運動

 

著者は当時、建築基準法の施行を担当し、同時期に連続的に発生した旅館・ホテル・百貨店の大火災対策として、建築基準法第6次改正を担当した。その時期に、田中が指示した新都市計画法案が制定されれば、建築基準法は新都市計画法案に吸収されて、改正建築基準法の作業は全て反故になる。新都市計画法案の作成担当者は英国の都市計画を国内で宣伝するため、英国へ出張を命ぜられ「新都市計画法立法後の都市計画の姿」(即ち、『日本列島改造論』の実現)として、美化した英国の都市計画報道を国内に予告宣伝した。しかし、英国の正確な都市計画法の情報は、住宅局には持ち込まれなかった。それは、建築基準法を施行する住宅局職員は、新都市計画法案反対者と見なされ、英国の都市計画法情報は伝えない「つんぼ桟敷」に置き去りにされていた。英国情報は都市計画課担当者からの仄聞情報から推察するしかなく、新都市計画法案は遮断された住宅局関係者は、「隔靴掻痒」の状態にあった。建築行政全体は、都市計画法の立法が進めば建築基準法が消滅の危険性に晒されていた。

 

その時代に、丹下健三らモダニズム建築家は、東京オリンピック施設を建築基準法に違反する先端技術を駆使して実現した。その事情もあって違反建築物は急拡大していった。違反建築物対策は、建築基準法第6次改正強化の目的になっていた。丹下健三らモダニズム建築推進派は、奇抜な設計を建築基準法に違反して実現してきたため、規制強化を図る建築基準法改正反対と違反建築物容認運動とを丹下健三のモダニズム建築運動のために仕掛けてきた。

東京オリンピックでは、東京大学はその名誉を賭けてメインスタジアムを、「ル・コルビジュエのモダニズム建築をモデルに作る」と公言し、その奇策は、「モダニズム建築意匠を模倣すれば、東京赤坂迎賓館同様実現できる」と確信していた。しかし、模倣対象にできるモダニズム建築様式は存在せず、競技場の設計はできなかった。開催期日が迫り、膨大な設計条件を前に、丹下健三と坪井善勝は協力し、オリンピック屋内競技場は『2棟の釣り構造とはHPシェルの大屋根』を駆使した最先端建築技術を取り入れ、無限に近い大量の設計条件を解決した建築を造り上げた。それは東京大学建築工学科が当初意図したル・コルビジュエのモダニズム建築ではなかった。「コンピューター技術造形」と言われたが、東京大学はそれを「モダニズム建築」と主張し続けた。東京オリンピックが大成功し(1964年)、丹下・坪井が共同設計した代々木オリンピック屋内体育館は社会的に評価され、「モダニズム建築」とル・コルビジュエが認めた情報が日本に伝えられ、その結果、東京大学の面目が施された。

 

実はオリンピック施設は、工事中から雨漏り事故が続き、丹下については「雨漏り欠陥建築設計者」と批判が挙がっていた。これに対して丹下は、「雨漏りしない建築など建築ではない」と開き直っていたが、ル・コルビジュエから「モダニズム建築」と評価されることにより、丹下健三のオリンピック施設の評価は、「欠陥建築からモダニズム建築」に大逆転された。丹下健三は、黒川紀章と菊竹清訓の二名の若手建築家を広報担当に使い、「世界に着目されるモダニズム建築家に挑戦しようとするならば、建築基準法違反に挑戦するべきだ」と違反建築物を促すようなキャンペーンを張った。その主張は、建築基準法改正に取り組む住宅局への批判となり、違反建築を煽る丹下と住宅局との対立が激化した。丹下らモダニズム建築家は、違反建築事故を起こしても「造反有理」の毛沢東理論で違反建築を煽り唆した。

 

違反建築を撲滅する使命を受け、第6次建築基準法改正に取り組んでいた住宅局は、「有名建築を創るためには違反建築への挑戦を恐れるな」と煽る黒川と菊竹の2人の建築士が設計した違反建築物を取り押さえ、2人の設計者に建築士法による業務停止処分をした。その結果、丹下らの違反建築助長運動は沈黙されたが、2人の建築士は列島改造委員を理由に自民党幹事長二階堂進に救済を求めた。結果、建築指導課長救仁郷斉に圧力が掛かり行政処分の執行は妨害された。2人の建築士処分を決定させた私は更迭され、3年間国外追放された。

 

6.新都市計画法の挫折:明確にされなかった立法妨害の本当の理由

 

新都市計画法案は、英国の都市計画法の思想を取り入れ、「土地を建築加工して一体不可分の建築不動産を造る」ものだった。当時の内閣法制局としては、「田中角栄という学歴もなく行政経験もない成り上がり者に、国家の法秩序を乱される」との見方で、田中を警戒した。つまり、保守勢力は田中が既存の法慣習に挑戦し法秩序を崩壊させる危険があると判断した。田中の独善的な政治を阻止するため、同法案が「民法」に矛盾することを挙げ、過去の立法と行政の慣習・秩序を乱すと主張し、法案成立阻止を煽った。内閣法制局は、新法案は立法上の手続きの不備を根拠に、国会上程不可を主張した。建設省法官僚は、内閣法制局と法務省法律事務官には勝てないと立法断念に傾いた。田中はわが国の不合理な立法・行政を知ったので、立法・行政界を敵に回すことはせず、新都市計画法案の成立に執着しなかった。

 

ただし、内閣法制局は、「新都市計画法案は民法に矛盾するから立法できない」とは判断したものの、矛盾する結果が生み出す社会的不都合について、全く指摘できなかった。なぜなら、立法に関係した当事者たちは都市計画制度と英国の都市計画法の問題点を基本的に理解しておらず、「民法」と新都市計画法案との矛盾が立法内容に、顕著な実害を生まなかった。その後、内閣法法制局が指摘した「民法」との矛盾を解消させるべく、現行の都市計画法が立法されたが、その法施行は混迷した。それは、都市計画法の無知に起因していた。現行の都市計画法を立法した国土交通省は、制定法の施行通達さえ出せない始末であった。

他方、都市計画法の立法者ではなかった東京都都市整備局は、都市計画行政を停滞させないために、過去の都市計画及び建築行政経験に基づいて、都の都市計画行政に必要な行政指針『開発許可の手引き』を独自に作成し、それを東京都の新都市計画法の施行指針とする旨を、国土交通省に通知した。これを受けて国土交通省は、暗黙裡に東京都の『開発許可の手引き』を、国土交通省の行政指針として容認した。要するに国土交通省は、新都市計画法を所管する立場にありながら、東京都における都市計画法の施行を投げだし、その代わりに、東京都都市整備局が作成した『開発許可の手引き』によって、都市計画行政行うことを容認した。

 

なお、この『開発許可の手引き』の用語の定義によると、都市計画法は「土地」を開発の対象にすることを明確にするため、「土地が開発許可の対象」であることが強調された。つまり、最初英国の都市計画法の「プランニング・パーミッション」を、「民法」の規定(土地と建築物とは別の不動産)に合わせ、土地を「開発許可」の対象に特定し、「土地の区画形質の変更」と定義した。その結果、建築不動産という一体の土地と建築物とを無理に分離・区分し、建築物と区分できない土地部分に都市計画法の「開発許可」を施行した。科学的に不可能な「開発許可」を情緒的に行った結果、法律上の許可の境界を設定はできなかった。

 

7.現行の都市計画法違反の都市計画行政になった立法の経緯

 

現行の都市計画法では、開発許可の完了公告後でなければ、建築基準法による建築行為は禁止している。しかし、東京都の『開発許可の手引き』によると、都市計画法施行者(東京都知事)は、都市計画法に定める「開発許可」に先行して、都市計画法で禁止される建築行為を認めた。即ち、都市計画法の施行を中断させ、都市計画法で禁止された建築行為を「例外許可」で可能とした。つまり、開発許可が完了する前に、(1)都市計画法で禁止された建築確認事務(建築工事を含む)を例外許可し、(2)建築工事の完了公告後に開発許可に係る残された開発行為(仕上工事と植栽造園)を行なわせ、(3)工事完了後に「開発許可の完了公告」が行われる、という法規制に逆行する非常識行為が、制度化されたのである。

 

都市計画法による「開発許可行為」の実務は、都市計画法立法時に建設省からの施行通達された「都市計画法手続きを終了後に建築基準法に係る建築工事を行なう」原則と矛盾している。現実には、建築基準法による「建築物の完了公告」の終了後に、都市計画法による「開発許可の完了公告」が行われる。都市計画法を立法した国土交通省は、この違法手続きに沈黙し、東京都の作成した『開発許可の手引き』に従えとの事務手続きを進めている。建設省(現・国土交通省)の法律事務官は、「英国の都市計画法」とは異質な法律を立法した。現行の都市計画法では、英国の都市計画法の「計画許可」が、土地を行政処分の対象にする「開発許可」(土地の区画形質の変更)に変更されているが、それは「建築工事に前置される土木工事」を「開発行為」と定義しただけで、「開発許可」と「計画許可」とは異質である。

 

「開発許可」と言う用語が、「英国の都市計画法」を新都市計画法の立法作業の非常に早い時期から、「プランニング・パーミッション(PP) 」と言う言葉は英国の都市計画法行政に基本であるとい言うことは伝えられていたが、重要であると言われえいたが、そこで行われている行政事務は殆ど説明されることはなかった。そのうちに新都市計画法と「民法」とが法律の目的とする内容が英国の都市計画法は「建築不動産」とすることに対し、わが国では土地と建築物とは別の不動産と見なし、都市計画法は土地を対象とする土地利用計画を対象にして、都市計画を定める行政手続きを行ってきた。都市計画法に基づき都市計画区域内の用途地域、防火地域・準防火地域、建蔽率や容積率、その他都市計画として都市計画決定することは都市計画法に基づく都市計画行政として行ってきた。その都市計画に対応する建築規制は、土地利用計画として定められた建築物の用途・構造・建築形態については、都市計画のカテゴリーに合わせ、市街地建築物法(1950年以降は建築基準法)で建築計画に対応する建築構造基準を定め、その構造基準に合わせて建築規制を行うことが建築行政として実施されてきた。この都市計画法が都市計画区域内の土地利用計画と建築計画を行い、その都市計画に合わせて建築基準法が建築構造規制を行う関係を「姉妹法の関係」と呼んでいて、この関係は新都市計画成立後にも踏襲されると住宅局では考えられていた。

 

しかし、新都市計画法は英国の都市計画法に倣うという大方針が立てられたことで、姉妹法の関係も解消するとされた。しかし、姉妹法の関係を維持してはいけないという結論が明確にされたわけではなく、ただ、新都市計画法が制定されれば、建築基準法は廃止されなければならないという考え方が一人歩きしていた。そのため、建築行政を担当していた住宅局では、内心新都市計画法の成立を望まず、新都市計画法の立法に対応した準備は殆どしていなかった。ただはっきりしていたことは、新都市計画法により「計画許可(プランニング・パーミッション)」が導入されれば、建築基準法による「確認制度」が消滅する結果、都市計画法に新しく生まれる「計画許可」の一部に吸収されるかもしれないとされたことである。

 

新都市計画法が新しく創設すると言われていた「プランニング・パーミッション」に関して住宅局として議論することはなかった。想像できたことは、以下のようなことであった。都市計画としては都市計画区域内全体の土地利用環境の全ての建築不動産が都市計画に沿って相乗効果を発揮することができるように、個々の建築不動産にとっても、都市計画区域の発展にとっても有益であることが期待されていた。個別の建築不動産と都市計画区域の関係は、自由主義社会では、「内部矛盾の外部化」と「外部矛盾の内部化」の関係にあり、その調整を行う機能が都市計画法と建築基準法による行政である。できるだけ詳細な計画を立てるとともに、法定された計画の範囲で出来るだけ柔軟に法律を施行し、個人の要求に最大限応え、相隣関係や地区の環境を効率的に機能させることが「計画許可」求められている。

 

8.英国の「プランニング・パーミッション」

           (PP:計画許可)と異質な「開発許可」

 

英国の都市計画法は建築不動産全体を対象に「計画許可」を行うもので、建築部分と土地部分とに切り離すことはできない。英国の都市計画法の「プランニング・パ―ミッション」は、「建築不動産を開発する際に、都市計画法施行者からの計画許可」である。つまり、「プランニング・パーミッション」とは、都市計画区域に建設される建築不動産全体に対する計画許可が行政処分の目的であって、土地の開発(土木工事)許可ではない。わが国では、都市計画法は「民法」の規定に合わせ、土地開発と建築工事とに分け、土地開発部分の「開発工事」を「開発行為」言い換えても、「計画許可」の行政事務は本来の許可には戻らない。

 

そのため、わが国の都市計画法の立法者・建設大臣は、法律の解説も施行通達も出せなかった。その結果、欧米諸国の都市計画法と同質の都市計画が施行できない。国土交通大臣は都市計画法で規定した計画許可の施行ができず、都市計画行政を投げ出した。都市計画法が機能しないので、東京都が独自に『開発許可の手引き』をまとめたが、手引きの「開発許可」は、英国の都市計画法に規定されている「計画許可」の考え方とは矛盾した法規定である。

 

わが国の現行の都市計画法の展開は、田中角栄の権力行使に対するわが国の保守勢力からの謀反に起因し、「民法」との無原則な妥協が現行の都市計画法として実施された。都市計画法に関する「民法」との矛盾は、都市計画行政に如何なる不都合をもたらしているかの検討がされず、土地と建築物とを分離した行政事務をする混迷した手続きに追い込まれている。

 

付属講座1

 1980年行政改革誕生・住宅都市整備公団志村清一総裁の公団職員訓示

 

日本住宅公団と宅地開発公団は1980年の行政改革で合併し、住宅都市整備公団が誕生した。新住都公団の総裁には、建設省事務次官を長期間勤めた志村清一が就任した。志村は旧内務省官僚で、戦後は建設省官僚の頂点にある事務次官を長く勤めた官僚経験の豊かな人物である。そうした長年の業績を行政改革で生まれた住宅都市整備公団総裁として、総括し発展させることが求められていた。私は住都公団の設立当時、都市開発計画部都市開発調査課長に任命され、敷地地面積3000ヘクタール以上の都市開発調査を担当する職に配属されていた。その頃に、志村総裁が私たち公団職員に行った訓示は、革命的な内容に満ちていた。

 

総裁就任時の訓示で、志村は、戦後の米軍による軍需産業戦略に依存した高度経済成長に流された公団業務を、抜本的に見直すことを提起した。志村が指摘するところによると、戦後に建設省は、日本住宅公団や宅地開発公団に大規模開発を指揮したが、今回、住都公団に求められるものは、経済成長を支える世界的な大都市開発を競い合うのではない。むしろ、エベネザー・ハワードのガーデン・シテイのように、「居住者の成長に合わせ、居住者が主体性をもって住み続けたいと望むような、生活環境と個人の資産形成のできる環境の整備」こそ、住都公団の進むべき途で、近代世界が立てた住環境目標に立ち返るべきであるとした。

 

実際、わが国の政府・建設省、都道府県、公団、公社が、戦後に推し進めてきた政策は、経済成長のための産業労働者を集めるために、住宅を大量供給する産業政策であり、その代表的な役割を示したのが、「住宅金融公庫」と「公営住宅」で、高度経済成長政策として進められた政府施策住宅(物づくり政策)で、「建て替えを繰り返す住宅」を造ることであった。「住宅金融公庫」とは、戦前の財閥の軍需産業資本を使い、戦後の米軍への軍需物資を供給するため求められる産業労働者を確保するための「産業向け住宅建設資金供給機関」であった。一方、「公営住宅」は、朝鮮戦争のための米軍兵站地を緊急に整備する政策が、米国から日本政府に対して求められたことに起因する。即ち大量に発生した軍需産業下請け労働者を、短期に大量に集める必要が生じ、政府は「英国の公営住宅制度に倣う政策」と銘打って、国民を欺罔し大量の低賃金労働者を集める住宅として「公営住宅」が提供された。

 

戦後のわが国の住宅政策とは、軍需産業のための住宅政策であり、欧米の福祉政策として行われた住宅政策ではない。しかし、住宅政策の実態を隠蔽するため、住宅局は京都大学工学部と官学協力し、「日本の住宅政策史」を英国の公営住宅制度と同じ政策と欺罔し捏造した。産業政策としての住宅政策の延長線上に、わが国の公営、公団、公庫の住宅政策があった。

公営住宅制度が都道府県の行政境界を越えて公営住宅を供給することができなくなり、広域行政のための住宅供給政策として日本住宅公団が創られ、地方住宅供給公社が生まれ、短期間にわが国の住宅供給量は欧米住宅先進国のようになり、学者研究者は住宅の一戸当たり規模や建設量を持ち出して、わが国の住宅や都市は欧米に匹敵すると誇る人が多数現れた。

 

公営住宅の建設基準を見ても、その内容は兵舎や産業住宅(社宅団地)とは基本的に同じではないかと批判されてきた。住宅局や住宅公団は日本の住宅開発の批判に応えるべく、英国のハーローニュータウン(NT)に学ぼうと、建設省から技官を英国に長期出張させ、都市開発図面を持ち帰らせ、東京大学と京都大学から研究者を派遣し、ハーローNTの模倣を支援しようとした。ハーローNTと同じ規模の土地を大阪の千里丘陵に購入し、ハーローNT開発に真似た道路パターンの住宅地を創ろうとした。しかし、その結果は、ハーローNTとは似ていないどころか、それと正反対の無秩序な衰退していく都市しか開発できなかった。

 

この実情を改めて認識する必要がある。住宅都市問題は人文科学(生活者の歴史・文化)として学ばなければならないが、わが国はスクラップ・アンド・ビルドを工学と考えてきた。住宅都市整備公団は、軍需産業復興と欺罔した日本の住宅政策と産業政策とは縁を切り、欧米の人文科学による住宅都市開発の歴史と技術を学習しなければならない。そのためには、エベネザー・ハワードが「明日へのガーデン・シテイ」でまとめた住宅都市の理論と実践を、欧米の住宅都市開発・都市経営から学ぶことが望まれる。住宅生産性研究会(HICPM)は、25年間のNPO活動を通じ、全米ホームビルダーズ協会(NAHB)から学ぶ早道を知った。  

 

わが国では、大正デモクラシー時代(1910年代−20年代)に、英国のガーデン・シテイにならった取り組みがあった。関西では小林一三による阪急電鉄「宝塚田園都市開発」、関東では渋沢栄一と四男(秀雄)による東急電鉄「田園調布開発」、東武電鉄、西武電鉄、小田急電鉄などが行った郊外住宅地開発の事例があり、その延長に3Cプロジェクトがある。

 

戦後には、同じ視点で住宅都市開発をしてきた人物、元日本住宅公団の高蔵寺ニュータウンを開発した津端修二が挙げられる。津端は、欧米の最先端の住宅地開発や、フランスの自由時間都市・(ラングドック・ルシオン)、ドイツのグリーン・ツーリズム、イタリアのアグリ・ツーリズムを現地に出かけ調査し日本に紹介し、津端自身も夫婦生活全体で実践した。

 

住宅都市整備公団の総裁に就任した志村は、津端を住宅都市開発の師匠とみなし、公団職員に対して、津端に学び、事業の相談をするように指導した。ボウクスの「3Cプロジェクト」は、実に志村・津端の流れを汲む居住者本位の画期的な企画であったと言える。津端の場合は、自らがその住宅地の生活者となって住宅地が提供する街の生活を確認し、生活者がそれを住宅地経営にフィードバックすることで、欧米の優れた住宅都市開発技術を伝えた。

 

付属講座2

ボウクスによる「3Cプロジェクト」に生きる欧米住宅文化の思想

 

視点を北米に転じてみると、ボウクスが実現した「3Cプロジェクト」と同様な取り組みが、全米ホームビルダーズ協会(NAHB)の会員たちの住宅都市開発において広く実施されていることがわかる。全米各地では、「トラディショナル・ネイバーフッド・ディベロップメント)(TND:伝統的近隣住区開発)や、「ニュー・アーバニズム開発」が、長い寿命を維持する開発として居住者の需要に支持され、「住宅所有者の住宅による資産形成」になっている。

これらの模範的な住宅開発の源流をたどると、20世紀初に出版されたエドワード・ベラミー著『かえりみればー2000年より1887年』に行き着く。この書では、「産業革命の成果が国民の富の分配になっていない事実を改善する提案」が指摘された。この提案に応え『明日へのガーデンシティ』で著したエベネザー・ハワードは、その実現をロンドン郊外レッチワースで、「最初のガーデン・シティ」として建設した。このガーデン・シティの理論と実践を、米国の都市計画家ルイス・マンフォードが、「人類史上での最高の発明」と称賛した。

 

ガーデン・シティは、世界の住宅地開発を通して、国民生活を安定し、かつ、成長させる住宅地形成の方策を示した。ハワードの住宅地開発の理論「ガーデン・シティ」は、人々の憧れの住宅地として、常に売り手市場であり続ける住宅地経営を実現し、その住宅地に住む消費者の住生活要求に応え続ける開発である。このような住環境では、健全な子育てと居住者の豊かな日常生活を、「住民の総意」により経営管理することが実践された。住宅地環境は居住者たちに美的な環境とともに、機能と性能にも優れ、売り手市場であり続ける環境の維持管理が住民自治により行われ、個人の住宅資産形成ができる住宅地経営がなされる。

 

住宅地が、恒久的な美を維持する優れた環境であり続けることは、長い歴史の中で人類が望む最大の要求だったと言える。西欧の歴史的文脈では古代ギリシャ・ローマに遡り、人類の普遍的な価値観を西欧では「クラシック」と呼んでいる。西欧文化の源泉には紀元前五世紀ペリクレスの時代、古代ギリシャのアテネが繫栄した。アテネは、デロス同盟の指導都市国家、かつ、民主・海洋国家として力を強大化し、その最盛期にはパルテノン神殿の建設等見張る古代建築を生みだした。歴史を下った中世以降の西欧世界では、クラシック(ギリシャ・ローマ)芸術を復興する文芸復興「ルネサンス」が興隆し、それは欧米文化を席巻した。

 

新大陸・北米に建国されたアメリカ合衆国にて、後に成長し広まったニュー・アーバニズム・デザインは、古代ギリシャを源泉とし、歴史文化の弁証法的な発展を体現するものである。ボウクスの「3Ⅽプロジェクト」のニュー・アーバニズムのデザインは、この流れを汲むもので、ここには古代ギリシャ・ローマのデザインを現代要求に合わせて発展させた近代以降の一連のクラッシック(ギリシャ・ローマ)文化・TNDの造形を見出すことができる。

 

北米の住宅地の開発業者は、ハワードの「ガーデン・シテイ」理論を「ニュー・アーバニズム」と呼ばれる住宅地理論に発展させた。それは、人文科学の視点を正しく踏まえたものであり、居住者が住宅地の計画内容を理解し、民主的に住宅地経営をすることを基調とするものである。住環境を発展させるため、開発業者がニュー・アーバニズムの理論と知識でNAHBが推奨するCC&R(住民が生活環境管理ルール)を定め、住民が自治で守り育てることで、コミュニテイが豊かになり、住民の住宅資産の経年的な増殖が図られるわけである。

 

住民が、住宅および住宅地環境に使用された材料・構造・構法を理解し、住宅地の清掃と維持管理を適正に行えば、住宅施設環境は劣化しない。そうすれば、住民の購入した住宅とその環境の資産価値は、物価に連動し住宅の資産価値を増殖させる。欧米では住宅所有者が住宅取得により資産形成ができている。その理由は、取得した住宅が物価上昇以上の比率で価値を高めているからである。「3Cプロジェクト」は米国に倣った住宅地開発を継承するものであり、住宅購入者の資産形成を実現するために貢献することが大きく期待される。

 

付属参考資料:全米ホームビルダーズ協会(NAHB)と相互協力協定下の活動

HICPM(NPO法人住宅生産性研究会)の出版活動業績

HICPM会員の全国各地での住宅地開発と、HICPMが組織で行った活動を以下に列記する。

1. HICPMとグローバル研修企画が共同で実施した欧米への研修ツアー及びその報告書

グローバル研修企画㈱で実施。旅行記録・報告書はグローバルで保有している。

2. HICPMの発行した月刊誌『ビルダーズマガジン)創設号〜最終号(HICPMの活動)

月刊誌は、全号ボウクス社で保存管理(閲覧可)。第1号=第267号外に前10号含む。

3. HICPMによる原稿製作、外部出版社の発行した市販書籍、および会員向け学習資料

(1)井上書院(HICPMの協力出版社)刊(すべて市販の単行本)

·         『アメリカン・ハウス・スタイル』ジョン・ベーカー著、戸谷英世翻訳、翻訳。

·         『アメリカの家・日本の家』戸谷英世著(近藤鉄雄初代理事長の学習図書)

·         『輸入住宅4つの革命』同上。(中曽根内閣の「輸入住宅政策」誘導図書)

·         『新ホームビルダーズ経営』同上。(NAHAの指導されたホームビルダー経営)

·         『定期借地権とサステイナブルコミュティ』同上。(100年定借支援図書)

·         『日本の住宅はなぜ貧しいか』(アサヒグローバル久保田社長との住宅批判)

·         『フローの住宅、ストックの住宅』同上(「欧米と日本の住宅」の対立視点)

·         『住宅で資産を築く国、失う国』(HICPM会員による共同研究・共同執筆)

·         『サステイナブルコミュニティの実現』(HICPMの住宅産業の活動総括)

·         『マークスプリングス物語』HICPMとマーク事業の共同執筆、編集・解説。

·         『アメリカン・コンストラクション・マネジメントテキスト』3冊(CM,CPM.TQM,CC:建設業経営)、NAHBプレス作HICPM翻訳・編集

(2)住まいの図書館刊(住宅問題・住宅デザイン専門図書出版社)

·         『アメリカの住宅生産」(米国の2×4工法 住宅史)、戸谷英世著

(3)学芸出版社刊(住宅及び住宅地開発専門図書出版社)(絶版)(米国原著調査報告)

·         『アメリカの住宅地開発』(米国のTND住宅史)、戸谷英世・成瀬大治共著。

(4)Xナレジ社(建築知識社)刊(住宅及び建築専門図書出版社)

·         『最高の工務店を作る方法」HICPMサステイナブルハウス会員共著。

·         『建築物様式ビジュアルハンドブック』戸谷英世著(アメリカン・ハウススタイル参照)

(5)第3書館刊(社会党辻本議員秘書支持の出版社)編集長との協力制作

・ 『ウサギ小屋の真実』(欧米の住宅政策対比で見た日本の住宅政策の批判図書

(6)話の泉社刊(HICPMで開発した「サステイナブルハウス」の解説書)

·         『アメリカの注文住宅のわかる本』(成瀬大治が設計総括をしたHICPM会員の共著編集した2×4工法による(入門ホームプランシステム図書)。

4. HICPM出版の各種テキスト、翻訳資料、その他資料(HICPMの会員向け学習用資料)

·         『米国の最新住宅地開発』(TND基礎資料集)、FHA作成・HICPM翻訳。

·         『新しく住宅を購入するための100のQ&A』(米国内の消費者向資料翻訳)

·         『イギリスの住宅デザインとハウスプラン』「英国の建築センター資料の翻訳」

·         『日本の住宅産業体質改善のシナリオ』(HICPMの住宅産業研究成果資料)

·         『21世紀末ビルディング・リバブル・コニュニティ』(米国の都市成長政策)

·         『米国における伝統的近隣住区開発(TND)』(HICPMによる米国調査資料)

·         『借地(リースホールド)方式による住宅地開発技法』(HICPMの提案書)

·         『住宅地開発とデザインのガイドライン』(米国の住宅地開発の実例紹介)

·         『北米4地区の住宅地開発と維持管理コード』(米国での現地調査での資料)

·         『サブプライムローン事故に対する米国住宅産業の取り組み』(米国調査報告)

·         『米国における住宅紛争処理と瑕疵保障対応の手引き(「米国建設業法」解説)』

·         『国土交通省超長期優良住宅地経営管理マニュアル』(国土交通省評価事業)

·         『アメリカン・ハウス・スタイル』(ジョン・ミルンズ・ベーカーの図集)

·         『リモデリング手引書』(NAHB・CMHCの指導書の翻訳・解説した資料)

·         『リモデリング営業・販売成功への9段階』(NAHB作成資料の翻訳)

·         『住宅による資産増殖手法』(HICPMが国土交通省の補助金で作成した資料)

·         『官から民への住生活基本法時代』(同上の補助金で作成した資料)

·         『アメリカの住宅金融モーゲージローン』(HICPMで纏めたモーゲージ資料

·         『ディスカバリータウン住宅設計図集』(カナダバンクーバーの住宅地事例)

 

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