生きる意味と価値を知る 仏教と心身の修行講座

生きる意味と価値を知る 仏教と心身の修行講座

宗教としての仏教ではなく、仏教が本来持っていた、心理学、哲学、修行法をお伝えします。心と体を使って楽しく修行していきましょう。

こんにちは、橋本文隆 ぶんりゅう と申します。

仏教は本来、抜苦与楽(ばっくよらく)の道との立場から、
苦を減らし楽を増やす生き方や方法をお伝えしていきます。

そのためには、身体を整え、意識を高めることが必要です。
なぜなら、心と体は一体であり、相乗効果で良くなるからです。

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こんにちは、ぶんりゅう です。


前回、「自分自身が仏である」、それが密教であると申し上げました。

その実現のための修法が「三密加持」。

三密加持」は、密教の基本となる思想であり、修行法でもあります。


加持」というと、現代では、加持祈祷という言葉で使われることが多く、僧侶や行者に祈ってもらって、家内安全や商売繁盛など、
現世利益を願うのが一般的日本人の考えでしょう。

しかし、空海の言う「加持」は意味が違います。


空海の著書『即身成仏義』には、


「仏日の影、衆生の心水に現ずるをといい、

行者の心水、よく仏日を感ずるをと名づく」


とあります。


仏の姿が人の心の水面に映るのが

修行者の心が仏を感じ取るのがです。


加持は、仏を感じ、仏と一体となり、自身が仏となる
密教の思想と手法を現しているのです。



はしもと ぶんりゅう

こんにちは、ぶんりゅう です。


今回は、密教のお話をします。

密教は、「
後期大乗仏教」とも言われ、仏教の最終的発展形態
革新派仏教の最たるものです。

世界には、日本に伝わる中期密教
チベットに伝わる後期密教があります。


空海の代表的著作に『即身成仏義』とあるように、
密教は成仏(仏に成る)教えです。

「仏になる」「成仏する」と言えば、今では「死ぬ」ことを意味します。

もちろん、
密教の教えである「成仏」とは、そんな意味ではありません。


一般的に仏教といえば、
仏さんにおすがりして、仏さんに救っていただく
という感覚が普通ではないかと思います。


しかし密教では、「自身が仏になるのだ」とするのです。

仏という自分とは別の存在が、自分を救ってくれるのではなく、
自分自身が仏である」ということ、

このことを理解できれば、密教は簡単です。

手法としては、「三密加持」という行法がありますので、
後日、ご紹介します。

はしもと ぶんりゅう

こんにちは、ぶんりゅう です。

抜苦与楽(ばっくよらく)、苦を減らし楽を増やすには
どんな修行をすればいいのか?

伝統的な仏教の修行では、「戒定慧(かい・じょう・え)」という
ステップが伝えられています。

戒律を守り、禅定の境地となり、覚りの智慧を得る」というものです。

ただ、日本の現代仏教は、
僧侶でさえ戒律を守っていないのが普通です。

まして一般人は、戒律とは無縁の世界にいます

そこで、私は次の3つのステップを考えています。

1.適切なマインドセット
2.適切な感覚・感受
3.適切な思考・考え方


マインドセット
マインドセットというのは、基本となる心のあり方を意味します。


信仰心の厚い人や、何か特定の宗教を信じている人は、
戒律を守ることで、マインドセットできます。

特定の宗教を信じていない人の場合は、宗教に関係なく、マインドをセットするようにしています。


感覚・感受
感覚・感受は、私達が本来持っている感覚を、よみがえらせることが大切です。

それは、感じるべきものを素直に感じ、極端に走ることのない中道にあるものです。


正しい感覚を持てば、心身に必要なものを求め、必要ないものを遠ざけるようになります。



思考・考え方
現代日本社会は、「思考停止社会」とも言われています。

膨大な情報に踊らされ、自分の目でその真偽を見、自分の頭で考えるということが、とても少なくなっています。

新聞の情報を、そのまま信じる人の割合が、日本人は極端に高いという調査報告もあります)

適切な思考・考え方とは、苦と楽の違いを知り、それを見分け、苦を手離し、楽を手に入れる智慧です。

このように、心のあり方が適切であり、感覚・感受が適切であり、
思考・考え方が適切であれば、苦は減り、楽は増えていくことでしょう。


ひとつひとつの具体的なやり方は、
これから随時、ご紹介していきたいと思います。


はしもと ぶんりゅう

こんにちは、ぶんりゅうです。

大乗仏教(革新派仏教)の覚りの究極は「」です。

般若心経で有名な「色即是空 空即是色」の「」です。

理論的なことは置いておいて、感覚的に「」を捉えるとすれば、
それは、あらゆるものにとらわれない状態です。

一切のものに縛られることなく、何かに寄りかかることなく、
どこかに片寄ることなく、中道に存在しています。

これは、最高に自由な状態ですが、
一般人にとっては極めて不安定な感じがします。

何かに寄りかかったり、支えられている方が安心できるからです。


この状態は、心だけでなく、身体にも存在します。

一般人は、身体を固くし、体のどこかに寄りかかり(負担をかけ)、
無駄なエネルギーを使いながら生きています。


しかし、武道の達人や一部の整体家は、
まったく異なった身体の使い方をします。

身体を柔らかく使い、どこにも寄りかからず、体に負担をかけず、
中心を保って楽な状態にいます。

完全にニュートラル(ゼロ)の状態にあり、だからこそ、
完全に自由な身体となっています。


このような身体は、流派によって、さまざまな名前で呼ばれています。

例えば、
中心体、聖中心体、統一体、心身統一体、黄金体、宇天体
などなど。

私は、このような身体を「ゼロの状態」と呼んでいます。
完全に自由な状態という意味です。

知識で「」を知っても、覚りには近づきません。
それよりも、身体(感覚)で理解することです。

Don’t Think. Feel ! (ブルース・リー)


はしもと ぶんりゅう

こんにちは、ぶんりゅうです。

昔から、仏教と武道には深い関係があります。

武道の達人が覚りに近づく理由として、2つのことが考えられます。

ひとつは、精神的な側面。

武道も仏教も共通しているのは、常に死と向き合っていること

生きること死ぬことに正面から取り組む仏教、
負ければ即、死を覚悟する武道、

死から眼をそらさず、逃げない精神性が共通しています。


もうひとつは身体的な側面。

武道の達人は、身体の隅々まで神経が行き渡り、身体の内側まで感じることができます。

また、運動と重力との関係、相手との関係を感じる能力に秀でており、もっとも無駄のない動きで、自分と相手の中心を捉えることができます。

この中心を捉える感覚は、身体と精神を最高の境地に導きます。

意識と身体の一体性を理解し、達人の身体(悟りの身体)を通じて、悟りの心に至ることが可能となるのです。


武道の達人になることは、一般の人にはとてつもなく困難なことですが、達人が持つこの感覚を身につけることは、誰にでも可能です。

この中心を捉える感覚を身につけると、
身体が軽く、心が軽くなり、抜苦与楽(苦を減らし楽を増やす)、
すなわち、覚りに近づくのです。


はしもと ぶんりゅう
こんにちは、ぶんりゅう です。

経典を見ると、ブッダの時代には、次々と覚った人が現れています。

しかし、現代の日本社会において、覚っている人など、まずいないでしょう。

なぜ現代の人は覚れないのでしょうか?

それには、2つの大きな理由があると私は考えています。

ひとつは、ブッダの時代に比べて、圧倒的な情報の増加です。

おそらく、現代人の処理する情報量は、小学生でさえ、ブッダよりも多いでしょう。

情報は増えれば増えるほど、脳はその処理に力を費やすことになります。

情報に振り回され、意思決定も感情の処理も難しくなります。

仏教の修行では、人里を離れて情報を遮断して、行に打ち込みますが、現代社会は、その真逆の環境にあるのです。


ふたつめの覚れない理由は、身体感覚の低下です。

心身一如で述べたように、心と体は一体です。
心はどこにあるのか? ~脳だけでは心がない~

五感(眼耳鼻舌身)と意から生じる識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を理解することが、覚りには必要です。

そのためには、深い繊細な身体への感覚が必要です。


しかし、多くの現代人は、その感覚が大きく低下しています。

一部のアスリート、身体運動家、整体、気功などの分野で、卓越した感覚を持っている人は、確かにいます。

しかし、昔に比べて、圧倒的に身体を使う機会の減った多くの現代人は、その感覚が低下しています。

それは体や感覚の状況を正確・精密に把握する能力が低下しているということであり、楽な体、楽な感覚を取り戻すことが困難になっているということです。

いくら知識を得ても、いくら瞑想しても、身体を深く感じられないのでは覚れません。

まずは、健全な身体と感覚を取り戻すことが必要です。

ワークショップやプチ修行では、誰にでも無理なく、身体の感覚を蘇(よみがえ)らせることを、行なっていきたいと考えています。

はしもと ぶんりゅう

こんにちは、ぶんりゅう です。

瞑想が危険であることは、オウム真理教を見ればよくわかるでしょう。

彼らは、瞑想の体験の素晴らしさにおぼれて、道を外していきました。

瞑想が進むと、さまざまな神秘的な体験をすることができます。

問題は、それが真実なのか、脳内の妄想なのか、本人には判断がつかないことです。

夢を見ているとき、普通、それが夢なのか真実なのか区別はつきません。

脳は、実際にあるものと、妄想で見ているものとの区別がつかないのです。


脳内では、死後の世界に行くことも、前世にいくことも、宇宙の外に行くことも、宇宙と一体となることも、すべて自由です。

しかし、それが真実と証明することは誰にもできません。

そのことを理解したうえで、瞑想を行なっていれば問題ありません。

しかし、現実と妄想の区別がつかなくなると危険です。

すごいレベルの人でしたが、あっちの世界に行ってしまって、なかなか帰ってこなくなったことを、私は見たことがあります。

ぶっとんだ発言が多くなって、本当に危なかったです。
(最近マシになりましたが)


ブログやワークショップでは、安全な方法をお伝えしていきたいと思います。


はしもと ぶんりゅう

こんにちは、ぶんりゅうです。

心というのは、どこにあるのでしょう?

脳にあると思っている人が多いのではないでしょうか。

脳に意思や感情があり、それが体に指示を出す
というのが、一般的な感覚です。

しかし、最近の脳科学では、脳が体に指示を出すのではなく、
体の状況によって脳が判断している
ことが確認されています。

つまり、脳は、体があってはじめて判断できるのであり、
脳(心)と体は一体であると考えることができます。


仏教では昔から、これを「六識」として考えます。

六識」とは、眼耳鼻舌身意の6つの場所に生まれる認識です。

五感(眼耳鼻舌身)意(心)に、
それぞれ「(認識)」が発生すると考えるのです。

眼耳鼻舌身意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)それぞれの識は、
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識

と呼ばれます。

この五感と共に識があるということを突き詰めていくと、
認識(心)は、身体と分けられないことがわかります。

最近の脳科学が明らかにしてきた心と体の不可分性は、
心身一如(しんしんいちにょ)として、
仏教が長く主張してきたことなのです。


はしもと ぶんりゅう
こんにちは、ぶんりゅうです。

仏教の基本は、抜苦与楽(ばっくよらく)
苦を抜き楽を与えることです。

元々の仏教は、「煩悩を滅して、菩提(覚り)を得る」という方法が基本です。

でもこれ、やってみると、素人にはなかなか難しいです。
いつまでたっても煩悩が消えません。

一方、大乗仏教や密教など、革新派の仏教では
煩悩即菩提(ぼんのう・そく・ぼだい)」と言います。

煩悩が実は菩提(覚り)であるという考え方です。

なぜそう考えるのか、という理論的なことは置いておいて、「苦を減らし楽を増やす」という実践面から考えると、「煩悩即菩提」は、なかなか効果的な方法です。


煩悩を無くそうとすると、必ず無くせない現実に出会います。

そして、煩悩を無くせない自分を責めたり、自分はダメだと自己効力感を低下させたりします。

一方、煩悩があることを認め、煩悩は煩悩として、ありのままの自分を受け入れると、自分にダメだしすることがなくなるので、苦が減ります。

さらに、煩悩を煩悩として見つめ、その働きを洞察していくと、自然と消えていくことがわかります。

煩悩を無くそう無くそうとしていると、無くならない煩悩が抵抗しますが、受け入れて、ただ観察していると、自然と消えていくのです。

そのとき、菩提が少し見えてきます。

煩悩即菩提」は、
煩悩を通じて菩提(平安)に至る、とても効果的な方法です。


はしもと ぶんりゅう

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