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来たるべきシノノワールのために

己の言葉を研ぎ澄ますことを目指して

人と人との間では、出逢う事ができない事がある。見る事ができない事がある。

それらに出逢うために私は旅にゆくのだ。

人と人の間で固定された視線では、見る事ができない事を見るために。

人と人との間に居る事を止めている時の私は全てを受け入れる用意がある。

全てを拒絶する、選択肢を持つ。

そうやって、彼らを待つのです。旅のゆく先で。

私の前に彼らは現れる。そして境界線を通り抜けてしまう。

言葉では到底表わすことなどできない、感覚を残してゆく。



しかし、彼らと楽しんだのは今の私ではなく、あの時の私なのです。

彼らを持ち帰る事は許されず。

虚しさだけが共にいるのです。

こうして再び旅へとゆきたいと願ってしまうのです。

また戻る場所はここでしかないと知りながらもまた。
小さいけれど、旅にゆく。
赤い車と音楽がお供だ。
風景と音でこの旅はどこまで行けるだろうか。


http://www.youtube.com/watch?v=xWcvfQ1mHho&feature=player_embedded

蛭川の春の風物詩、杵振祭りがありました。

お祭り日はあの境内がとても広く感じるのです。それは子供の頃から変わらずに思う事です。
毎年四月第三日曜に杵降祭りは催されます。ぜひ一度このまつりの空気を感じにお越し下さいませ。
日々を過ごしておりますと、予期せぬ種々の出来事から学ぶ事柄が本当にたくさんあるのです。
その学んだと思う事柄を活かして、次はこの間よりも上手に日々を過ごしたいと切に思うのです。
しかし、学んだと思う事柄を活かす場とはもう気づいた瞬間には、過ぎ去ってしまっているのでした。
残念ながら、学んだことを活かすことはできないのです。できないのです。
解っていても過ちは繰り返すのです。いいえ、そうではないのです。同じ過ちは決してない、その過ちはその場限りの過ち。
過ちと呼ばれるものにも一期一会しかないのです。
日々を学んで活かすことはできない。昨日よりも今日をよりよく過ごすことができない。進歩などはできないのです。
悲しまないで下さい。これは悲劇ではないのです。これこそが、人生の醍醐味だと私は思うのです。生きていくことを道とするならば。
主体と主体のぶつかり合いの中にだけ、存在できる場所がある。

見られようとする世界と見ようとする、その人。

待っている人がいる。待たせている人がいる。

待っている私がいる。待たせている誰かがいる。

待たせている私がいる。待っている誰かがいる。
光の中から闇が産まれる。

闇の中から光が産まれる。

二つがあるからこそ。

記憶から未来(想像)が産まれる。

想像から過去(記憶)が産まれる。

二つがあることで、そこに影を産む。

生から死が産まれる。

死から生が産まれる。

この世の全ては対であり、対でしか存在できない。

どちらかの色に染まってしまえば、

それは存在しない、無と同じことだ。

敢えて自覚をしながらその思考をまとめない。
何をすべきか、何をしたいのか。そういった事をうち放ち、後は勝手にさせておいて自分は知らん顔。窓の外を眺めているだけ。
かまびつしい世の中で、それは随分と贅沢な過ごし方であり、またなんの意味も伴わない愚行である。
私にはとても魅力的だよ、その愚行。
愚かしい。
明日が来る。

明日がまた来る。

皆はそう絶えず口にしているから

私はそれを素直に信じている。

けれど

皆がそう示している明日とは

この明日なのか

どうなのだろう

教えてはくれない

私は仕方がないので

この明日を使って生きてゆくことにしている

よいのかな?
春になるね

人はまた通り過ぎてゆくよ

いろんなものに
憧れを持ったりして

いろんなものを
見上げたりして

春になる

目が廻る

春になる

そう、春になるんだね





これまでの日々を過ごす間に

たくさんの人たちと出逢う

いろんな人たちと出逢う

そしてそれぞれの別れを経てきた。

今まで、過ごした日々の中で

ずっと、ずっと、付き合ってきて

今この瞬間まで別れていない人がいる。

それが自分という人。

自分とは、ただそれだけのこと。