今回の地震騒動で乾いた(醒めた)嫌われるものの言い方をしてみますと。
過去にも大地震は起こっているわけで、それでも私たちは暮らしているわけで。だから地震が来ても死ななかったらいいわけです。ただし今の秩序が置き換わっていくでしょう。家が壊れて違う場所へ移るとか。インフラがダメになって山へ芝刈りへいくとか。家族を失ってしまうとか。。地震(天災)は何も関係なく人が築き上げた秩序を無慈悲に壊してしまいます。(正に神)
その地震を潜在的に恐れているのは秩序としてより大きな影響をもつものでしょう。大きな組織。今のところ国ですよね。国とは国土ではなく、まして政府を指すわけでもないです。読んで字の如く、国民ですよね。それが国。私たちは基本的には国から教育を受けてきました。その根本は秩序を守り国を栄えさせましょうね、ということでしょう。そしてその秩序に(日本というローカルルール)抵触しないように気を使いつつ暮らしています。ありがたいことに経済的には恵まれた状態であるらしく、私たちは思った時にしたいことができるような環境にあります。(ただし、お金という要素が現在の秩序には重要であります)その秩序を壊してしまうのが、地震です。一旦揺れてしまったら、さっきまで信じていた通念が通用しなくなる。端的にいえばお金が意味をなさなくなる。恐怖ですね国としては。被災地は言う事を聞かなくなってしまうのですから。そして対外的(経済規模)にも弱くなってしまう。国を人間の身体で表わせば、天災は身に降り掛かった怪我。足を怪我して歩けなくなる。首都直下型地震は中枢神経をやられてしまう事態です。末端の下肢はどうすればいいのか狼狽えてしまいます。。非常に不安ですね。でも末端の下肢は実際には痛くも痒くもないわけで。。だから不安に怯えながらも、コタツでせんべいを食べながら被災地をテレビで見ることができるのです。そしてまた明日が来て、日々を続けていく。被災状況によってその日々の秩序は変化するでしょう。極論をいうならば、北朝鮮が攻めて来て占領されるとか、中国の属国となるとか(こちらはけっこう可能性はあるかもね)結局そうしてまた新たな秩序が生まれてくる、そして日々は続いていく。悲しいかな新たな秩序が個人にとって善いか悪いかはまた別の話。だから使い慣れたこの日本の秩序が壊れるのは非常に不安です。新しい好ましい秩序が欲しいと思うのならば地震ではなくて、革命と呼ばれる行動を起こすことです。最近テレビを賑わしているリビア情勢はそういうことですね。ただし、あれは国にとっては怪我というよりも感染症に近いでしょうか(ドミノという感染)あの内戦状態もいつかは一つの秩序に収まっていくことでしょう。だたし国という身体がバラバラになっているかもしれませんが。結論として、人間は何か秩序を持たないと集団生活を営んでいけません。それは人間に限ったことではないかもしれませんが、人間は欲が桁外れに膨らむのでそのまま放置しておくと隣人が居なくなってしまいます。私たちは各人それぞれに各種の小さい集団に属してそのローカルルールに従っています。そして最終的に属す集団としての国があります。集団生活の風呂敷の大外。最終的な大枠を国という機関に預けています。それによって各種の権利、恩恵を受けています。(アメリカの核の傘に入ることも恩恵のひとつ)そのために国民の義務を果たさねばなりません。教育だったり勤労だったり納税だったり。3つを一言でいうと秩序を守ることという括りをできないでしょうか。その秩序を守ることで、国公認、お互いに共通の秩序を与えてもらえる。それが権利というものでしょうか。だから権利とは国を飛び越えると通用しない。。ですから国民とは、秩序を与えてもらうために、秩序を守る民のことを指すのでしょうか。円を増やすために、単純に皆が1万円札を各々印刷しても意味がないのは、円の秩序が乱れてしまうからです。汚れたお金とかいう言い方をしますが、そういった方法で得たお金が嫌われるのは秩序に即していないからです。やはり義務に即してお金を得ることが尊ばれます。お金に対する憧れはなぜ生まれるのかと考えると、生き物が持つ最大の力、暴力。その権利を国に預けることで、得た今の秩序。その秩序の中で暴力に似た最大の作用をもたらすことができるのがお金。それが集まることが人は心地よい、力を得ることが。秩序の重要なファクターであるお金。だたしそれも国という秩序の主が認めた要素の一つであること。ファクターが一番で秩序よりも意味をなすようになると国は困ってしまう。その辺りの手綱捌きが絶妙な国はどこでしょうか。
どんどん脱線しますが、結論は秩序とは作られてはまた壊れてゆくもの。その壊す原因が地震であれ、革命、戦争であれ。また新たな秩序が作られ、いつか壊れるということ。身体が怪我、病気で死を迎えるのと同じに。死を恐れるのは、その先に何があるのかが分らないからでしょうか。今まで造り上げた自分という価値が消えてどうなってしまうのかが、分らないから。
私が感じるところ、本来秩序というものは、信じる人がいるから成り立つもの。秩序を信じるという秩序から、秩序は意味をなす。ですから、自分は毎日自分で自分の価値を秩序に照らし合わせて造り上げているのです。もしもその行為を解き放つことができるのならば、自分の価値などいくらでも変えることができる。価値などという言葉ではなくて、自分という存在を。ただそれがあまり流行らないのは、物理的、身体的にはあまり意味をなさないからです。そして属す秩序がそれを嫌うから。でも私の言葉でいうなれば、それが本質的な自由。それが人たる所以。畜生との違いでしょう。(畜生より優れているのではなく、彼らは意識などせずにそれをしているのかもしれません)その本質的な自由を得ることができるならば、目の前の秩序がいくら目紛しく移ろうとも、日々は平穏に過ぎてゆく。畜生はやはりそういう生き方かもしれません。しかしそうやって自由へ飛んでいったり、秩序に戻って来たりを繰り返しているのが、人のニヒリズム的愉しみかな~(それは個人的に私の好みかもしれません)