自然と人工物1 | 来たるべきシノノワールのために

来たるべきシノノワールのために

己の言葉を研ぎ澄ますことを目指して

 以前、養老猛氏が人工物とは自分の意識だけだというような意味の文章を書いていたのを読んだ記憶がある。あの時は、なんだかしっくりこない感覚であったが、現在はすんなりと飲み込んでいる感覚である。彼の指摘してものとそのまま同じ感覚ではないのかもしれないが。自分が手を加えなくても勝手に出来上がってくるもの。知らないうちに勝手にそこにあるもの。目の前に広がってくるもの。そういうものを全て自然だと今は感じている。一般的に自然というのは、人間が手を加えていない状態のことをいうのだろう。人が手を加えて作り出したものは、人工物としてまったく違うものとして一線が引かれる。以前の認識だとそういう感覚であり、今現在でも理解できる。しかし、そう定義すると矛盾がおきる。自分の身体は人間が手を加えなくても勝手に出来上がるものである。種付けは人間の意志で行っているというかもしれないが、それで絶対に肉体が生まれくると言い切れない。できるかできないかは、神のみぞ知るという奴である。それが自然というものとどう違うか。違う方向になるが、現在社会はモノで溢れかえっている。人工物で窒息しそうである。しかし、そのモノを作ったのは自分でない。自分とは関係ないところで勝手に生まれて、気づいた時に目の前にある。これは自然と同じではないか。ただそこに、分かり易く役に立つかどうかと定義ができるから、役割の限界(機能)を定義できる。その役割が終わればゴミと処理できるもの。そういう違い。たしかに、大きな自然の役割を定義することは想像しにくい。そしてゴミとしてかたずけることは。
続く