隠れキリシタンに想う(2)その時仏教徒は・・・ | 良田 寛(ペンネーム) 新老いらくの記

良田 寛(ペンネーム) 新老いらくの記

いつのまにか「老いらくの記」という言葉が似合う、それなりの歳になってしまいました。
精一杯生きてきた事を何かに残したい、足跡を何かの形で残したいと思っています。

 日本にキリスト教が伝来したのは1549年。地理的に近い天草には、1566年に伝来したと言われている。熱心な宣教師と日本の貧しい人たちを背景に、キリスト教は瞬く間に広がっていった。ところがもう一つ違った背景があった。当時の新しい技術、鉄砲や火薬、火薬の原料などが欲しかった諸大名たちにとって、キリスト教はポルトガルやスペインとの関係を強化するために必要なツールだった。諸大名はこぞって改宗し、九州では大村純忠(長崎)、有馬晴信(島原)、志岐麒泉(天草)、大友宗麟(豊後)らが改宗していった。これらの諸大名は、領民をキリスト教に改宗させ、神社仏閣を焼き払った。
 天草については、当時真言宗、天台宗が広まっていたが、クリスチャンに改宗した小西行長(1588年に領主となった)と天草五人衆(天草を支配していた士族)は、島民や僧侶を半強制的に改宗させた。さらに寺社を焼き討ちし、その跡地に教会を建てていった。こうなると隠れキリシタンと同じようなことが仏教徒の間にも起こってくる。

 天草西海岸に近い河浦町、ここに浄土宗の古刹観音寺がある。ご本尊は、板碑に刻まれた如意輪観世音菩薩座像。この板碑には、1505年8月吉日(戦国時代)、武山勝公和尚によってこのお寺が建立された事も刻まれている。キリスト教が伝来する約40年ほど前になる。
 この板碑に刻まれた観世音菩薩像、小西行長がこのお寺を焼き討ちした際(1500年代後半)、近くの川(町田川)に投げ捨てられた。その後熱心な仏教徒は観世音菩薩像を引き上げ、隠れて信仰したとの話が河浦町に残されている。また一方、川の中にあった如意輪観世音菩薩座像が引き上げられたのは1671年で、その後観音寺のご本尊として祀られたとの資料もある。年代的に若干の食い違いがあるが、正確な状況は分からない。またこの町田川には他の寺から投げ捨てられた仏像が何体かあり、今は引き上げられ近くの公民館に安置されている。

 こういった史実を追いかけると、キリシタンだけではなく、仏教徒の悲惨な歴史も見えてくる。当時ポルトガルやスペインは植民地政策を進めており、奴隷貿易も行っていた。実際日本からも5万人ほどが奴隷として連れ出されたことが分かっている。それを知った豊臣秀吉は1612年、禁教令を発した。キリスト教は侵略的植民政策の手先であるとした。その後の世界状況を見れば、強国の植民地政策がどうなったかは明白だろう。豊臣秀吉、それに続く徳川幕府は日本の植民地化を防いだことになる。結局被害者は弱い者。権力者の欲望に翻弄された貧しい日本人と、日本の悲惨さを救おうとした宣教師たち。「隠れキリシタン」を忍ぶことはもちろん悪い事ではないが、「隠れ仏教徒」がいたことにも、もう少し史実として光を当てても良いように思う。

  左  如意輪観世音菩薩像の拓本 板碑実物は秘仏として公開されていない

  右上 観音寺

  右下 町田川