ある週末、とても疲れてしまっていて、真っ直ぐ家に帰りたくありませんでした。
こんな時は自然に触れるのが結構効くのですが、仕事帰りに行けるナチュラルな場所が思い当たらずで、結局会社からひと駅の天満橋で流れる川を見ていました。
会社では常にがんばらないといけないし、家では不調続きの子供さんが控えています。
以前お世話になっていたカウンセラーに「どんな時にリラックスできますか?」と訊かれて、眠って意識をなくしている時以外に思いつかなかった私です。
生活は常にストレスフル。
この日は週末の金曜日で、一週間の疲れで心身ともにへとへとになっていました。
10月の始めでまだ寒くなかったので、八軒屋浜の船着場辺りをぶらぶらして、階段になっているところまでくると腰を下ろしました。
テイクアウトしたお茶を口に含みつつ、つらつらといろんなことを考えました。
まだ母が死んだことの実感が湧かないこととか、家族の人数がどんどん減ってしまったこととか、子供の頃に丹後の親戚と山菜とりや竹の子掘りをしたこととか、脈絡もなく。
私が幼稚園や小学校だった頃と今が変わり過ぎていると思いました。
子供なんかほったらかしで、近所の年齢の違う子供が集まって靴隠しやごっこ遊びをしていたあの頃。
公設市場ではちりめんじゃこを売る店があり、その店先でいっつもつまみ食いをしていました。
鶏肉の専門店では捌いている調理場に入り込んで、いつまでも勝手にお喋りをしていました。
親が親しくしていた本屋では、おばちゃんが買い物に行く間の店番をよく頼まれて、レジの前に座って好きなマンガを読みまくっていました。
親は子供をほったらかしにしていても、大丈夫な地域の環境がまだあったように思います。
引っ越して鍵っ子になってからは、慣れない学校で苦労し、親が頼りにならないことに気づき始めましたが、幼い頃に育った自由闊達さが助けてくれて、何とか生きていくことができました。
しかしその後は家族のトラブルが続発し、家族や親世代の助けがないことや、それ以上に虐待に近いような生活環境になって苦しむ破目に陥りました。
それでも生き抜けたのは、自分の中の芯となっているものを守り抜けたからだと思っています。
失敗も思い違いも沢山ありましたが、なんとか自分は助かりました。
でも、自分しか助かりませんでした。
子供さんは生まれてこの方ずっと厳しい環境の中にいたので、私のように自分の芯を育てる機を逸してしまい、現在も苦しんでいます。
助からないとは思っていませんが、まだその為の突破口は見えていません。
他の家族とは悉く縁が切れてしまい、ふわふわとした不安感が疲労とともに湧き上がってきても、それは私にとり仕方のないことです。
まだ家族が増える可能性がない訳ではないと言う人もいますが、それはあくまで可能性のことであって、実際的にはそれがどれほど難しいかをあまり想像していない発言に過ぎません。
その可能性を実現するのにどれくらい困難が横たわっているか、イメージできているのは私しかいないのが現状です。
子供さんが成長して話し相手になって助けてくれる可能性もありますが、それはいつになるかわからないし実現するかどうかも現時点ではわかりません。
今、この気持ちをどう扱っていけばいいのかと、時折こんな風にしんどくなることはこれから何度も何度もあることでしょう。
ひとりで川を眺めていても、幸いにして常に生きているソーシャル・メディアから頻々と友人の言葉が届けられるので、私は全くのひとりになることからは救われています。
正にその為に、私はそこに生きているのでした。
自分を休め、癒すことに、もっと長けていきたいと思います。
出来るなら更に他の人を癒せる程にと思ったりもします。
だって、子供さんを始め私を見守るやさしい多くの人の為に、私はしあわせになることが決まっているのですから。