2011年6月24日【号外】よど号ハイジャック犯・柴田泰弘死去(58才)-新聞報道 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 よど号ハイジャックに当時16歳で参加した赤軍派・柴田泰弘が死亡したニュースが報じられたので号外として掲載する。よど号メンバーについては組織関連図 を更新しておいたので参考にして欲しい。


(2011年6月25日 産経)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2011-06-25 産経 よど号犯・柴田泰弘死去


(2011年6月25日 毎日)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2011-06-25 毎日 朝 柴田泰弘死亡

毎日新聞は、この記事の続きのような記事をネットに掲載している。


よど号事件:死亡の柴田元受刑者 ハイジャック後悔も


 70年の「よど号ハイジャック事件」の最年少メンバーで、死亡していたことが明らかになった柴田泰弘元受刑者(58)。昨夏の毎日新聞の取材に「何であんなことをしてしまったんだろう。でかいことやらないかんという気持ちだけだった」と後悔の気持ちを話していたが、捜査に長年携わった警察OBは「事件の全容を知る数少ない生き証人だったが、すべてを語り尽くさないまま死んでしまった」と淡々と受け止めた。


 70年3月にハイジャックで北朝鮮に渡った当時は16歳の高校生。赤軍派による世界革命の国際根拠地構想に懐疑的になったものの、その後も革命を目指し欧州などで活動。極秘帰国していた88年に逮捕され、94年に服役を終え出所した。


 近年は家族とほぼ絶縁状態で、引きこもりがちの孤独な生活を送っていたという。取材には事件を悔いつつ、「大事件も革命運動も思い切りやったし、自分の思想の誤りも分かった。だけど、時代が違えば他の人生があったかもしれない」と揺れ動く心情が見え隠れする場面もあった。


 大阪府警浪速署によると、23日午後7時半ごろ、自宅アパートの管理人が「何日も連絡が取れない」と通報し、署員らが柴田元受刑者が布団に横たわって死亡しているのを発見。死後数日が経過し病死とみられる。支援関係者が10日ほど前に面会した際は変わった様子はなかったという。

 よど号事件の実行メンバー4人は今も北朝鮮におり、事件は41年たった今も解決していない。

(毎日新聞 2011年6月25日 1時35分)


 以下、柴田の足跡を追ってみる。


■1970年 よど号ハイジャックは柴田がいなければ全員逮捕されていた

 よど号ハイジャック事件 は、1970年3月31日に赤軍派が起こした日本初のハイジャック事件である。「よど号」というのは、日航機の愛称で、当時は機体ことに愛称がつけられていた。彼らは、北朝鮮へ渡り、そのまま亡命した。


 韓国当局は、ハイジャックされ、北朝鮮に向かったよど号を、韓国の金浦空港に誘導し着陸させることに成功した。ここで犯人たちが、北朝鮮だと思ってタラップを降りれば、韓国軍によって一網打尽にし、ゲームオーバーになるはずだった。


 このとき最年少16才の柴田が重要な役割を果たしていた。乗客で医師の日野原重明がその時の様子を振り返っている。


 赤軍グループのリーダーが、乗客一同に向かって皆に迷惑をかけたことを謝し、「皆さんより一足お先に降ります」といって、ドアを開けて降りようとした時、
「待て、降りるな。ここは北鮮ではなく、韓国だ。シェルのガソリンスタンドが見える。フォード車が外を走っている」
大きく叫んだこの少年はハイジャッカー9名中一番若く、われわれにはよど号での4日間を通して、一番目立たない存在だった。(中略)

 その目立たない彼が、私たち乗客の監禁4日目の最後に、歩哨としての重大な情報をギリギリの大詰めで見事に提供し、そのため赤軍一行が韓国の軍隊に逮捕されずにすんだのである。彼の赤軍への功績は絶大なものがあったといえよう。
(文藝春秋1988年8月号 日野原重明「柴田少年の功績」)


 このとき、柴田がいなければ、ハイジャック犯たちは、韓国で逮捕されていたのである。


■1977年 北朝鮮で八尾恵と結婚

 北朝鮮において、1977年5月4日に八尾恵と結婚、娘2人をもうけている。八尾恵はチュチェ思想の研究のため北朝鮮入りしたが、北朝鮮によって強制的に柴田と結婚させられた。「革命は代を継いで」という金日成の指示にによるものといわれる。


  柴田と八尾は90年代に離婚。娘2人は北朝鮮に留まっていたが、次女が2004年1月、長女は2006年6月に「帰国」している。


■1985年 日本に潜入 1988年 逮捕

 1980年代ごろから、よど号グループは日本への帰国願望が強くなっていた。1985年春によど号グループのリーダー・田宮高麿から、日本に潜入して全員帰国の下地をつくるようにとの命令を受けて、柴田は妻の八尾恵とともに極秘帰国した。


 八尾は、横須賀市で「佐藤」という偽名でスナック経営しながら活動をしていた。ところが、「佐藤は大韓航空機爆破事件に関与している」というタレコミが神奈川県警に入る。調査してみると、北朝鮮人脈が判明し、1988年5月に、アパートの名義に偽名を用いたとして公正証書原本不実記載・同行使罪で逮捕された。


(1988年5月10日 朝日夕刊)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1988-05-10 朝日 柴田泰弘逮捕


 柴田は、他人になりすまして潜伏活動をしていたが、1988年5月6日に兵庫県警により偽造旅券の疑いで逮捕。指紋照合でよど号メンバー柴田であることが確認された。


(1988年5月11日 朝日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1988-05-11 朝日 柴田泰弘はテロ工作員か


 北朝鮮からの出国には当局の許可が必要だし、1987年11月には、大韓航空機爆破事件がおき、北朝鮮による韓国オリンピック妨害目的とみられていたから、柴田は北朝鮮によって送り込まれたテロ工作員と疑われたのは当然だった。


 その後、大菩薩峠事件 やよど号事件で強盗致傷、国外移送略取罪等で起訴され、1993年11月に懲役5年が確定し、刑務所に収監された。未決拘置期間を差し引いて、1994年7月21日に出所。その後は大阪で一人暮らしをしていた。


■2002年 元妻・八尾恵による日本人拉致関与証言

 2002年、八尾は、 「心の縛りが解けた」 として、自分が日本人拉致にかかわったことを語り始めた。よど号グループが日本人拉致に関与していたことに日本中が衝撃を受けた。


(2002年3月12日 朝日)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2002-03-12 朝日 八尾恵拉致証言

(2002年3月13日 朝日)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2002-03-13 朝日 八尾恵 拉致証言


 八尾恵は手記 「謝罪します」 の中で、北朝鮮での出来事と、拉致の関与について詳細に証言している。


 よど号メンバーは拉致の関与を否定し、証言を 「公安のでっちあげ」とし、八尾恵を 「公安の手先」 と反論している (かりの会2002年3月12日声明)。


■2008年 柴田が「他人に成りすまし」の手口明かす

 柴田は、取調べや裁判においても、北朝鮮での活動について、多くを語らなかった。それは出所してからも同じであった。


 出所後は、よど号メンバーとも支援者とも距離をおいていたという。ただ、活動家との個人的親交はあったようだ。


 2008年になって、関係者に、他人になりすましの手口を明かした、という記事が載った。何か心境の変化があったのだろうか。


(2008年5月11日 朝日)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2008-05-11 朝日 柴田泰弘 潜入の手口

 
 記事中、「背乗り」の説明がわかりにくいので、説明しなおしておく。


 柴田がなりすました「中尾晃」という人物は、実在の人物で、日本国籍と北朝鮮国籍の2つの国籍を持っていた。どうして二重国籍なのかというと、、、


 中尾はもともとは日本人なのだが、母親の再婚相手が在日朝鮮人だった。そして、1950年代から始まった「在日朝鮮人の帰還事業」によって北朝鮮へ永住帰国することになった。このとき中尾は日本国籍の離脱申請をしなかったのである。(申請をしないことは、別に違法ではない)


 こうして日本人の戸籍が残ったままになっていたのである。将来、日本に帰ってくる可能性を残すためか、こういう人は結構いるらしい。これに目をつけて帰還者の名簿を手に入れ、「背乗り」をしたというわけである。


 柴田は、本人が現れる心配がないので、安心して他人になりすましていた。そして「中尾晃」として、生涯を終えるつもりだったのだろう。


 ところが、運命というのはわからないもので、中尾周辺に公安の調査が及んだとき、日本にいるはずのない「中尾晃」に出入国の動きがあることに気づかれてしまったのである。指紋照合で公安はびっくり仰天したにちがいない。


 よど号メンバーは、1980年代になって、さかんに日本への「無罪帰国」を訴え続けているが、「無罪帰国」など実現するはずがない。支援者の協力を得て、2001年から、なんとか子供や妻たちだけを「帰国」させたが、家族が離れ離れになってしまい、幸せそうには思えない。


 それもこれも、すべて柴田の 「待て、降りるな」 が生んだ状況なのである。


  柴田の死亡で、よど号メンバー9名のうち生存しているのは、小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎の4名だけになってしまった。