1971年5月15日 小学校の先生の給与ひったくり事件(赤軍派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 坂東隊の植垣康博、山崎順(山岳ベースで死亡)、進藤隆三郎(山岳ベースで死亡)の3人が横浜の小学校の先生の給与を路上で強奪した。


■1971年5月15日 先生の給与300万円強奪(朝日・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-05-15 先生の給与300万円強奪


植垣の著書によると、、、


 進藤氏は後ろから手を伸ばして、そのバッグをすばやくひったくり、2人の横をすりぬけて車の方へ走った。私(植垣)も同時に横をすり抜けて車の方に走った。2人(現金運搬の先生)はすぐに「強盗!強盗!」と大声をあげて追いかけてきた。そのため私と進藤氏は車に乗るヒマがなく、車を走り抜けてしまった。山崎氏がすぐに車を発進させ、私たちの横を並行して車を走らせた。車のほうを見ると、山崎氏がニヤニヤしていて、こっちまでおかしくなってしまった。


(中略:その後車に乗りこみ振り切ることに成功すると、3人はバラバラになり、アジトに戻ることにする)


 八王子につき電車を待っていると、進藤氏にあった。進藤氏は「やっと成功した」と嬉しそうに言った。私が「お前なかなか走るのが速いじゃないか」というと、進藤氏が「前に陸上部で短距離をやっていたんだ」といったので、「そうか、オレも短距離をやっていたんだ」と笑い合った。


 緑風荘(アジト)には午後1時ごろついた。私は坂東氏に「やったぞ!」といってバッグを渡した。坂東氏は、すでにラジオで作戦が成功したことを知っていて満足そうに笑いながら中身を確かめた。


 午後2時過ぎ、山崎氏が戻ってきた。彼もうれしそうに「これまでいつも直前になって失敗していただけに、これですっきりした」といったが、続いて「2人が金をとったあと、車に乗らずに走っていったので、あわてておいかけたが、どこまで走っていくのだろう、このまま行ってしまうのかと思った」といって腹をよじらせて笑った。

(「兵士たちの連合赤軍」)


 このエピソードからもわかるように、連合赤軍結成前は、坂東隊は明るく和気あいあいとしていた。山にこもってからはこの雰囲気がなくなり、山岳ベースで進藤と山崎は総括要求され死亡した(山崎は死刑宣告された)。進藤は女性や金にだらしがない、山崎は寺岡処刑の際おどおどしていたことなどが総括理由だった。


■1971年5月15日 県が代りに給与支給(朝日・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-05-15 先生の給与300万円強奪2


 この記事に 「教職員の給料は毎月16日が支払日。当日が日曜のため1日繰り上がった」 とある。さらに、記事には書かれていないが、通常は午後から銀行に行くところ、この日は午前中に銀行に金を下ろしに行ったのである。


 にもかかわらず、植垣たちが待ち伏せできたということは・・・・そう、学校内部から情報が漏れていたのだった。それは1年以上たってから明らかになる。

1972年3月28日 赤軍派の給与強奪は先生による手引


■1971年5月21日 モンタージュで手配 横浜の320万円強奪事件
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-05-21 植垣・進藤モンタージュで手配


「カバンを奪った男」が進藤、「体当たりした男」が植垣のモンタージュである。



 坂東隊は自主的にM作戦をやっていたのであるが、この頃から森の指示が届くようになった。もっとも、他に指示する部隊がいなくなってしまったのだが。


 またこの頃に、彼らがダイナマイトや雷管の入手に成功したことによって、赤軍派は爆弾作りが可能になった。1ヵ月後には沖縄返還調印式が控えており、そこで爆弾を爆発させようと森恒夫は考えていた。