1971年6月17日 明治公園爆破事件(赤軍派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年6月18日 沖縄26年ぶり復帰確定 学生爆弾投げる(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-06-18 朝日 明治公園爆破事件(赤軍派)


 沖縄返還協定調印の「実力阻止」を叫ぶ学生、労働者は、連続闘争3日目の17日、東京を始め各地で、デモをした。東京では代々木、明治公園などに約3万人が集まって、デモをしたが、うち反代々木系学生集団は明治公園近くで、手製の鉄パイプ爆弾とみられる爆発物を機動隊に投げ、隊員26人が重軽傷を負った。
 このほか、各所で火炎ビンが飛んだり、乗用車、交番などに放火され、大荒れとなった。...この騒ぎで全国で837人が凶器準備集合罪などで逮捕された。


※記事中「反代々木系」というのは「反共産党系」のこと。


 1971年6月17日は沖縄返還協定の調印式という歴史的な日だった。そのため、明治公園爆破事件の取り扱いは小さく、読売と毎日は一面で取り上げなかった。


この爆弾は、植垣たちが調達したダイナマイトと雷管によって製作されたが、彼らは調達だけで、実行は別のメンバーだった。植垣は不満だったようだ。


「どうして俺たちの部隊にやらせてくれないんだ。俺たちが手に入れたのだから、俺たちにやらせてくれてもいいではないか」といった。しかし、坂東氏は、笑っていて何も言わなかった。疲れる任務ばかりやらされ、かんじんな闘争をやらせてもらえないほど、消耗させられることはなかった。トンビに油揚げをさらわれるような気持ちだった。

・・・・・

 坂東氏は、「今晩、デモが機動隊と衝突した時に爆弾を投げることになった。成功すればテレビに出るだろうから、テレビを見に行こう」といった。
 夜9時過ぎに私たちは近くの居酒屋に行って、焼き鳥を食べながらテレビを見た。爆弾が使われたというニュースはなかなかなかった。ところが11時に・・・・・ニュースが出た。爆弾を2個作ったと聞いていたので、1個しか使われなかったことにおかしいなと思いながらも、とにかく成功したことにホッとした。
(「兵士たちの連合赤軍」)



■1971年6月18日 明治公園爆破 計画的に使った疑い(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-06-19 朝日 [赤軍派] 明治公園爆破 計画的か

 この記事でわかるように、赤軍派はデモに参加していないと思われていたので、全く疑われていなかった。


 明治公園爆破は、森恒夫の指示によって、青砥幹夫と酒井隆樹が明治公園のデモ隊にまぎれて、機動隊に鉄パイプ爆弾を投げつけたものだった。この影響でデモ中の中核派約200名が逮捕された。事件の全貌は、1972年に連合赤軍メンバーが逮捕されて、青砥幹夫が自供するまで判明しなかった。


下記は1972年の連合赤軍メンバー逮捕後の記事であるが、ここで紹介しておく。


■1972年5月9日 明治公園爆弾犯人は酒井(毎日)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-05-09 毎日 [赤軍派] 明治公園事件の犯人.jpg