■M作戦の主な成果
M作戦の金額の大きな事件をまとめておく。
1971年2月22日 千葉県市原市辰巳台郵便局(71万8678円強奪)
1971年2月27日 千葉県茂原市高帥郵便局(9万4900円強奪)
1971年3月 4日 千葉県船橋市夏目郵便局(1万5350円強奪)
1971年3月 5日 神奈川県相模原市横浜銀行相模台支店(150万9000円強奪)
1971年3月22日 宮城県泉市振興相互銀行黒松支店(115万9200円強奪)
1971年5月15日 神奈川県横浜市吉田小学校から給与(321万6539円強奪)
1971年6月24日 神奈川県横浜市横浜銀行妙蓮寺支店から(326万円強奪)
1971年7月22日 鳥取県米子市松江相互銀行米子支店から(605万1600円強奪も検問で逮捕)
■1971年3月27日 熱湯浴びせ逃走(朝日)
住民の通報によって、警官が赤軍派のアジトであるアパートのドアをたたいたとき、中からヤカンの熱湯を浴びせて男女2人が逃走した、という事件である。このとき逃走した女性は4月9日に逮捕される(次の記事へ)。
■1971年4月9日 女性活動家を逮捕(朝日)
逮捕された女性の武勇伝は、革命左派のメンバーにも知られていた。後の山岳ベースで革命左派のメンバーが、遠山美枝子(山岳ベースで死亡)を指輪や化粧の問題で批判したとき、大槻節子(山岳ベースで死亡)は彼女の名前を出して批判している。
(「十六の墓標(下)」)
おそらくこの事件は、「闘争精神のお手本」として森恒夫に影響を与えたに違いない。もしそうだとすると、後の山岳ベースで、森が加藤能敬(山岳ベースで死亡)に対して、逮捕時の行動について「非常に長い追求」を行ったことに合点がいく。
「持っていたメモを飲み込んだ」
「警官と戦って包囲網を突破しようとは思わなかったのか?」
「そうは思わなかった。ただ、部屋にいた者を励まさなければと思った」
森氏はどうして警官と闘って包囲網を突破しようと思わなかったのか、そういう条件は全くなかったのか、という追求を細かく続けていった。そのためこの追求は非常に長いものになった。私(永田)は、ああそこまで追求しなければならないのか、自己批判すればそれでよいとしていたことは不十分で、間違っていたのだと思った。
(「十六の墓標(下)」)
■1971年3月29日 M作戦の全容わかる 最高指揮者は森(毎日)
この記事の最後に「兵士クラスは謀議のたびに『席をはずせ』といわれた」とある。このあたりに、赤軍派と革命左派の体質の違いが現れている。
永田がリーダーとなってからの革命左派は皆でよく議論しているし、下のメンバーが指導部に反対意見を言うことも許容されていたようだ。連合赤軍になって、森は指導部の討議内容をいちいち下のメンバーに報告に行く永田を批判している。
■1971年3月30日「連続強盗」で森恒夫・坂東国男ら指名手配(毎日)
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一連の「徴発活動」によって逮捕者が続出し、自白やアパート捜索で、組織や作戦内容が解明された。そしてついに森恒夫が手指名配されるに至った。先に指名手配となっていた植垣にいわせれば、、、
(「兵士たちの連合赤軍」)
M作戦は逮捕者続出で、ただでさえ少なくなったメンバーをさらに減少させた。実行部隊の指揮官は、3月11日に城崎勉、3月13日に新谷富男、3月13日に松田久が逮捕され、坂東隊以外は壊滅した。
このころ坂東隊に後の山岳ベースで総括される2人が合流した。
酒や女におぼれかけていたといわれる進藤隆三郎(後の山岳ベースで死亡)、指揮官が逮捕されてM作戦が実行できず消耗していた山崎順(後の山岳ベースで死刑)である。2人はM作戦(強盗)ができると、はりきって参加したのだった。
ふりかえれば、M作戦で逮捕されるか逃げのびるかは、人生の分かれ道だった。なぜなら、唯一生き残った坂東隊メンバーが、そっくりそのまま連合赤軍のメンバーとなる運命だったからである。