1972年3月14日 頼良ちゃんは無事 永田洋子ついに自供 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 この日の紙面は頼良ちゃん関連の記事で持ちきり。「目がパッチリ、血色もよく、丸々と・・・」と元気な様子が大きな顔写真写真入りで報じられ、この陰惨な事件の唯一の明るい記事となった。ほかにも永田自供など見逃せない記事が盛りだくさん。


■頼良ちゃんは無事(朝日)
 迦葉山アジトから中村愛子に連れ出されたまま行方がわからなかった頼良ちゃんは無事だった。母親保子に置き去りにされたあと、2月7日、中村に抱かれて山を降りたが、消息をたってから34日ぶりに保護された。


■中村愛子も出頭(朝日)
 21時23分、警視庁に「中村です。これから自首します」と電話をしてきた。5分後に正門に来たので、中村を確認 した。自供によると先月7日から山を下りて、頼良ちゃんといっしょに都内に舞い戻り、まもなく知人に頼良ちゃんを預けた。指名手配を知り、自首しようとしたが、頼良ちゃんを預けた知人と連絡が取れずためらっていた。頼良ちゃんが13日、保護されたことを知ってホッとし、自首する決意をしたという。中村は「リンチの場面をみたか」との係官の質問にうなづいて涙ぐみ下を向いてしまった。


■預かって欲しいと中村から電話 合田さん語る
 合田さんは2月7日(8日に中村と頼良ちゃんを高崎署員がみており食い違いがある)の夜、子供を背負った中村が「今夜泊めて」と訪れてきた。2月9日、合田さんは勤めに出たが、中村から「子供を預かって欲しい」と電話があり、アパートに帰ると頼良ちゃんが一人で寝ているだけで、中村はいなかった。子供の具合が悪そうなので、知り合いの寺岡医師にみてもらい、そのまま預かってもらった。寺岡医師は11日の新聞をみて「大変だ」と思って12日、弁護士に相談、13日一緒に市川市へやってきたという。


■無心の荒旅93日間 友人の子供と中村が預ける(読売)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972ー03-14 読売 夕刊10


■永田、ついに犯行自供 逮捕以来、25日ぶりに(朝日)
 連合赤軍の主犯格、永田洋子(27)が13日「12人の同志を殺したなかに私も加わっていた」と初めて自供した。逮捕されてから25日ぶりのことである。元"同志"の12人の遺体が発掘されたことを告げられ、"共同墓地"の遺体写真をみせられて、急に態度を変え、リンチ殺人の事実関係について口を割った。


 「オニババア」と同志からもカゲ口をされていた永田。群馬県・高崎署の薄暗い2階。この5号室が永田の独房。連行されたとき永田はまるで、野生の山ネコのような表情だった。留置場では顔は一応毎日洗う。3度の食事も警察で用意したものだけはきちんきちんと食べる。1日1本のタバコもうまそうに吸い、週1度の風呂にも入る。が、救対組織からの差し入れには「名前もわからない人からのものは受け入れない」と拒む。


 ふてくされ、ダンマリを続ける永田に手を焼いた高崎署は取調官を警備部公安担当から捜査の黒沢警部にかえた。大久保事件で名をあげた"落としの黒沢"だが、歯が立たないほどだった。


 それが8日、山田の遺体写真をみせられてから、少しずつ態度が変わってきた。スカートをスラックスに履き替えたり、髪にはくしを必ず入れた。「きょうはきれいだね」と係官が声をかけるとはずかしそうに「へへへへ・・・」。夜、寝てからうなされさかんに寝返りをうつ。独房の隅でじっと考え込むこともあった。


 「どうだい、君だけががんばってないで、もう話したら・・・」の説得に「両親と相談したい」と口を開いたのが11日。そして12日、森の上申書をみせられ、「ニセモノだ」「警察のでっちあげだ」と強がりはいってみたものの、同志の"転向"にささえを失い、ガックリしたのか、13日の朝の点呼にはじめて応じ、同志の殺害を自供した。


 この日、取調室を出てきた永田はジーパンに濃いグリーンのカーディガン姿。腰縄をされているが、髪はさほどみだれていない。フラッシュに驚いて一瞬あげた顔はむしろあどけない感じさえする。血も凍る大量リンチの「主役」とは思えないほど弱々しかった。


 永田が森の上申書を見せられたのは12日ではなく9日。上申書をみたとき、「驚愕し、わけがわからなくなり、何かがガラガラとくずれおちるように感じた」という。全面自供ではないが、殺害の事実を認めた。黙秘については著作で以下のように述べている。


 私の黙秘は、密室で第三者のいない取調べではそれが唯一の防衛であり、権利であるということを理解した上でのことではなかった。それは、黙秘すべきという観念からであった。というのは、何故黙秘が必要であり大切であるかということが語られないまま、黙秘することを絶対的原則のように強調され、黙秘したかどうかが組織員たりえたかどうかの基準、さらには転向しなかったかの基準のように扱われ、雑談でさえも黙秘に違反したことのようにみなされていたからである。(「続・十六の墓標」)


 いうまでもなく「黙秘が絶対原則」の理由は組織防衛のためである。しかし、このときすでに全員逮捕されていて、「連合赤軍」という組織はなかったから、黙秘の必要性は根本からなくなっていた。

 また"落としの黒沢警部"については好意的である。


 取り調べのある時、黒澤刑事と私の2人だけになったことがある。そのときこの刑事はポツンと「お前もかわいそうな女だな」とつぶやいた。留置場から連れ出すときも、取調室に行きたくない私がゆっくり歩いたり、途中で立ち止まって歩かなくなっても、それを黙って待ってくれた。私が菓子パンの購入希望をいうと、すぐに買いに行ってくれもした。この時買ってきてくれたメロンパンもおいしかった。(「続・十六の墓標」)


■編集手帳(読売)
 連合赤軍によるリンチ事件がここまでいやらしくなり得るという標本なら、首謀者の森恒夫が書いた上申書なるものは、人間がこうも得手勝手になることができるという見本である。上申書のように、自分たちが虐殺しながら、かれらの死をムダにせずなどとしらじらしいことをいったら軽蔑されるだけだ。


 本当に1日でも早くかれらのなきがらを家族に渡したいと言うなら、なぜ逮捕されたときにすぐいわなかったか。それをいまごろ取ってつけたようなことをいうから、何を勝手なことを・・・という気持ちにもなるのである。この期に及んで自分だけいい子になろうという魂胆が見えすいている。


 彼らの死は反革命や卑俗な人間性の問題ではなく、生死を賭けた革命戦争の主体構築のための戦いのなかの死とやらだそうだが、チリ紙を出してくれといったのがいかんなどとおよそくだらない理由で殺しながら、ずいぶんと都合のいいきれいごとがいえたものである。できることなら知らん顔で通す積もりだったのに、心ならずも自供したのでてれかくしの意味もあったろう。だがそれよりも、かれらの死を美化することによって、自分たちの殺人行為を正当化するのが上申書の狙いではなかったか。だからこそ、ひとごとみたいにいえるのだろう。


 意味ありげな「総括」と「死刑」の区別にしても、どっちみち死ぬまではやめないのだから無意味であった。総括して死んだ場合は敗北と言うのも詭弁である。まるで死んだ者に理ありといわんばかりだが、総括とはしょせん同志の首を<しめくくる>ことにすぎなかった。


■統一公判を要求 森(読売)
 森は「法廷を戦いの場として、すべてを明らかにする。このため他県で逮捕された仲間を加え、全員を同じ法廷に立たせてほしい」と13人の統一公判を要求した。「12人の遺体はオレの責任で明らかにした。ほかの事は法廷で戦うことなのでいっさい言えない」と口を閉ざし「奥沢は何をいっていますか」「永田に何もいうなと伝言してほしい」と面会人などに頼んでいるという。


そう言っておきながら森は4月13日から「自己批判書」を書き、そして法廷に立つ前に自殺してしまう。


■「私が悪かった・・・」加藤兄の父 白髪めっきりふえて(朝日夕刊)
 加害者の中にはやはり次男、三男がまじっていた。父親は悲しみと憤りをどこにぶつければよいのかとまどいながら「私はすべて自分に向かって問い直しているんです。教育者として、父親としての私に・・・」-約1時間、悲しく語った。


 ある夜、次男の部屋から日本向けの中国放送が聞こえてきた。「毛沢東語録」「ゲリラ戦教程」をみつけたときも感情をむき出しにして怒った。長兄は家を飛び出し、そのころからあわてだした。三男が長髪にしているのをとがめるとくってかかる。あのおとなしい息子が突然変わった。


 3人が家出してから私は息子達の思想を理解しようと進歩的な大学教授の本を読んだ。無責任に革命と暴力を結び付けている。それにしてもなぜもっと早く、息子らの思想を理解しようとしなかったのか、遅かった。


 ただうれしかったのは、次男と三男が坂東の父親の自殺を私と思って悲しんでいた、と警視庁の方から聞いたときだった。私は教師をやめ、2人がいつか帰ってきたら、ほんとうの父親になって息子らに接したい。


■ツキモノ落ちた対面 青砥(毎日)
 青砥は明け方必ずうなされている。大声でわめき、ガバッと起きる。「いつも同じ夢です。高校時代の友人が次々とリンチを受けて殺されていく。私はそれを黙って傍観しているのです。友人の顔が次から次に迫ってくる・・・」。

 13人のうち一番早く自供した青砥。完全黙秘に"攻め手"を考えた。そこで事件のことには一切触れず、青とのふるさと、福島の名物饅頭の話など雑談を繰り返した。依然黙秘。ただ同じ話を繰り返すと、厳しい表情でひとこと「くどい」。

 逮捕後10日たって父親が面会に来た。肉親のキズナを絶つことが革命への第一歩と思い込んでいた息子が、わずかな時間だがあった。面会後、やがてポツリ。「父親が・・・、ありがとうございました」あとは○○○(3字不明)のように自供をはじめた。父親と面会してツキモノが落ちたようになった。


■信仰化した理論(毎日)
 上申書の文中に特徴的にみられるのは、12人もの同志を殺していながら、それを「闘いの中で死亡した」「元同志たちの死」「死に物狂いの闘い」と他人事か、自然死、事故死のように片付け、「同志の死を決してムダにせず」といってのけていることである。


 呪文をとなえながら自らを縛る。他者への説得力はゼロである。うしろをむいてはならない。理論に、そして信仰に忠実に、死に物狂いの闘いを、と自分自身に言い聞かせたとき、残された道は前へ前へとまい進するだけ。その不自然さに気づかず、たどり着いた先が12人を殺し、一転して全面自供。しかし、罪の深さにおののく気配は何一つ感じられず、遺族へのお詫びの言葉ひとつない。


 革命を志した仲間がこわくなり「命助けて」と敵のはずの警察に飛び込んだり、捕まった仲間が「もうコリゴリ」と"自供コンクール"を演じているのを知っていて(森は取り調べ刑事から事件をつぶさに報道した日刊各誌を見せられている)なお「今は逮捕された同志の団結を軸に闘う」という無神経ぶり。


 指導者に必要不可欠な"冷静な状況認識"などカケラもない。わずか30人余しかいない連合赤軍の残党の3分の1以上を、自ら指揮して殺して、それでなくても減少した戦力をなぜ自滅させていったか、常識では到底、理解できない"リーダー"ぶりである。


 ナゾの男である。赤軍はそのものが発足当初からミステリーに包まれた疑惑の集団だったが、その幕引きにふさわしい男が、これまたわけのわからぬ森恒夫。「上申書」は森のカタワぶりを如実に示している。


■あと5人殺す予定 森が自供(毎日)
 森はこの日の調べで「あと5人は総括する予定だった」と自供。13番目から17番目までの殺しの順番を自供した。13番目の奥沢は連合赤軍が結成される前から杉崎と愛人関係にあったことと、寺岡の死刑に対し手加減を加えたこと、レンタカーを借りるのを怪しまれて失敗したことが理由。だが運転できるものがほかに1人しかいないので死体運搬要因に残しておいた。杉崎も次に総括の方針だったという。


 15番目は青砥。尾崎のリンチの際、手加減をしたためだが、あやまったので、死体運搬係として"一時延期"していたという。


 16、17番目は16歳と19歳の少年兄弟。長男の加藤能敬と愛人の小島和子殺害のとき、森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにしたため総括を免れていたが、兄をころしたことでかなりショックをうけ、いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていたという。この恐るべき殺人予定リストはすでに"殺人法廷"の決定機関「七人委員会」でも正式決定していたという。


 「死体運搬要員に残しておいた」「死体運搬係として"一時延期"していた」「いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていた」というのだから、総括とは名ばかりで、森ははじめから殺害目的だったことになる。もしこの記事が事実ならば。


 ところが、殺人予定リストの件は「正式決定していた」というが、森、永田、坂口、坂東の著書にもひとことも出てこない。また、本文中「森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにした」というのは間違いで、実際は森でなく永田が「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」といって数回殴らせただけである。 ここ数日の毎日のすっとんだ記事から推測すると、この記事の信憑性は薄いのではないだろうか。


■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)
 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。


■永田も手を下す(毎日夕刊)
 永田の持っていたアイクチから、ルミノール反応があり、死刑にされた寺岡の血液型と一致した。これで永田が寺岡を指した疑いが強いとして追求を始めた。永田は「もっと厳しくやれ」と指示することが多かったとされていたが、永田自身も命令者としてではなく、死刑執行人として寺岡の心臓を刺した疑いが強くなった。


 これ自体はどうと言うことのない記事だが、同紙は昨日、寺岡殺害について「永田がとどめ」という見出しで「永田はヒモで首を絞め、絶命させた。」と報じたばかり。ちなみに永田は寺岡を刺していない。


■手配の岩田を逮捕(朝日夕刊)
 13日夜10時50分過ぎ、家族に付き添われて長野県辰野署に出頭した。岩田は寺岡、山崎が死刑にされるのを目撃し、恐くなって逃げ出した。2月17日大阪府のおじの家にころがりこみ「仲間につかまれば殺される」といってかくまってもらったという。


読売朝刊では「張り込み中の長野県警署員に逮捕された」と報じていたが、自首が正しい。


■頼良ちゃん 危うかった一命 時々入浴も 中村自供(朝日夕刊)
 中村も昨年11月、警視庁に逮捕されたときの態度を森や永田に問い詰められたが「完全黙秘で通した。ただトイレに行くか、といわれたときに返事をした」と答えると「権力と口を利いたのはまずい」と一晩反省させられた。頼良ちゃんの面倒をみていると「子守をさせるために呼んだんじゃない」と批判されることもあったが、「子守も革命」と自分自身に言い聞かせ、ときどきは頼良ちゃんを風呂にいれたりした。「リンチに参加しないと自分も殺される」と思って恐かったという。


 死亡した加藤能敬は、無抵抗に逮捕されたことと取調官と雑談しただけでリンチをうけた。それに比べれば一晩反省するだけなら、まだましだった。加藤論教はこのときの様子をこう述べている。


 そこへ、前沢と岩田に連れられて、中村が帰ってきた。中村は席に着くと、逮捕されて留置されている間に、刑事の出してくれた飲み物や食べ物を拒否せず、飲み食いしてしまったことを自己批判すると述べた。永田はこの発言を聞くと、その夜の総括中の者の見張りを自分と一緒にするように命じて、中村にはそれ以上の追求はしなかった。


 私にはこれはきわめて不公平に映った。それは、永田に素直に従うものには寛容で、永田に意見を言うものには厳しく応対するということだった。特に女性の同志に対して、その姿勢は顕著だった。府中の是政での逮捕時の対応において、中村は兄と同様に厳しく追及されてもよさそうなものだった。しかし、ほとんど問題にもされなかったのは、ただ単に永田に従順だったからだ。そう思うと、納得がいかなかった。(「連合赤軍少年A」)


■今さら!悔恨の涙 森「死刑」におびえる(朝日夕刊)
 「死刑がこわい」-森恒夫が13日夜の取調べでぽつりともらした。調べ官は「あれだけ冷酷無残に仲間を"死刑"にしておきながら・・・」と憮然としながらも、やっと森にまともな感情が戻ってきたとみて追求をつづける。


 森は山田の死体が発見されてからショックを受け、調べ中に泣きじゃくるなど、それまでの強い態度をくずしはじめた。ところが8日、上申書では「山田らの"総括"は革命遂行のために必要だった」と処刑の正当性を主張し、居直りをみせていた。しかし、10日以降、次々に掘り出された惨殺したいのカラー写真をみせられて再び態度が急激に変わり出した。13日夜はついに「死刑になるんでしょうか。死刑がこわい」と恐怖を訴えた。


 森は逮捕されたときからずっと動揺しつづけた。時に強気になり、時に泣き崩れる。上申書を書いたり、それを後悔したり、自己批判書を書いたかと思うと、すぐそれを撤回する。死の直前には、自己批判しなおすことが急務と手紙に書きながら、気持ちが揺れ動き、1973年1月1日についに自殺してしまう。


■羽田闘争が動機に 奥沢 赤軍加盟で自供(朝日夕刊)
 慶応大に入学した42年、第一次羽田闘争事件で学生一人が機動隊の下敷きになって死んだという記事を読み、「警察が殺したに違いない」と確信、学生運動に入った。その後森と知り合い、ひかれていった。昨年11月、下宿に森が土方ののような姿であらわれ、赤軍に入るよう説得された。12月19日夜、下宿に若い男女があらわれ「森に頼まれた」とやはり赤軍に入るよう説得した。


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