1972年3月13日 破滅の魔女・永田洋子 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 この日の紙面は永田バッシングのオンパレード。憶測(でっちあげ?)記事が多く、なんでもありの書きたい放題。新聞の間違い探しをするのが目的ではないが指摘しないわけにいかない。連合赤軍の”総括”を批判しながら、連合赤軍の"総括"とまったく同じことが行われているのだ。新聞とはかくなるものであったか、と痛感する。


■さらに四遺体 同じ穴、折り重なって(毎日)
 群馬、長野寮県警は青砥らの自供にもとづき、榛名山ろくで男3人、女1人の死体発掘作業を行い、4遺体を収容した。同本部は、加藤能敬(22)、尾崎充男(22)、進藤隆三郎(21)、小嶋和子(22)と確認した。これで9人の死体が発見された。


■隠された"ねらい"に焦点(朝日)
 連合赤軍殺人事件は13日の発掘で12人全員がみつかり、殺された人数は12人と断定した。これは8日森が前橋地裁あてに書いた上申書の内容とこれまでの捜査経過から判断されたものである。
 警察当局はこれだけ陰惨なリンチ事件を繰り返し、組織を防衛してきた背景には、何か、大きな目的があったのでは、と疑っている。その1つに妙義アジトでつかまった森恒夫と永田洋子がまっ先に捜査員に聞いたセリフ「東京で何かあっただろう」という質問がある。この永田のセリフからして、その前後に東京またはその周辺で何事かが起こるか、武器の隠し場所がわかるなどのことがあるはずだが、1ヶ月あまりたったいまもそうした動きを警察はつかんでいない。


 森や永田が「東京で何か起こらなかったか?」と聞いた、という記事は3月1日の読売新聞にもでていたが、彼らの手記を読んでみても、東京でコトを起こそうとしていた気配はない。


■恐怖の"穴掘り役" 次は自分が「総括」に 山本保子、前沢ら自供(朝日)
 遠山、行方、寺岡の死体の処分は保子が運転する車に死体をのせ、監視役として坂東か吉野がのりこみ、穴掘りは前沢だった。前沢と保子が死の恐怖を感じたのは、遠山、行方、寺岡が尾崎ら4人の死体処理に出かけたときに永田が「次の処刑予定はあの3人だ」とアジトでもらしていたのを聞いたためで、自分達も同じ運命にあると感じたという。

 前沢らが「今度は自分の番だ」と恐怖にかられていた矢先、山崎順の「脱走失敗」のハプニングがあり、死刑が行われた。森らの自供を総合すると、保子についての疑いが晴れなかったので、その長女、頼良ちゃんを人質として取り上げ、中村愛子にあずけさせるとともに、保子の身代わりとして夫の順一を総括して殺し、保子らに対する処分を先延ばししたという。


 永田は次の処刑予告などしていない。山崎は脱走失敗したわけではない。保子の身代わりとして順一を殺したということではない。


■「総括」と「死刑」は別 「死は彼らの敗北」 森の自供(毎日)
 森は自供の中ではっきりと「総括」と「死刑」2つの殺害方法があったことを明らかにした。これによると「総括」とは「ブルジョア社会の残存物を排せつして、革命戦士として自らを変えていくことであり、討論(自己批判要求のこと)の過程で"総括"しつくせないときは、暴力の援助(全員によるリンチを意味)をし、仮にその者が死しに至った場合は敗北になる」という。「死刑」については「味方を敵に売り渡す裏切り分子に対しては"死刑"を宣告した」という。しかし、森は総括にかかれば死以外にはないことも認めている。


 これは重要な記事だ。森が「暴力の援助」や「敗北死」について自供しているのがわかる。ここにリンチ殺人の本質のヒントがあったのだが、当局もマスコミも、この論理を「身勝手」と一蹴し、一顧だにしなかった。その姿勢は後の裁判においても続く。しかし、いかに身勝手な論理であっても、彼らはそれにすがってリンチ殺人を行っていたこともまた事実なのである。


■「15人を殺した」永田洋子ついに自供(毎日)
 永田は2月17日、妙義山アジトで逮捕されて以来高さ貴書に留置、取調べを受けていたが、名前も応えず、捕まったことに悔し涙を流しただけ。あとはかたくなに黙秘を続けていた。


 しかし13日になって、奥沢の自供によって山田隆や金子みちよらの発掘当時の無残な全裸死体のカラー写真と山田の引きちぎれた衣類、森が8日に書いた上申書を見せたところ、永田は動揺の色をみせた。

 始めは「この上申書はウソだ」と言い張っていたが、やがて見覚えのある森の筆跡に納得したのかカラー写真をじっと見つめた。そのうち全身を震わせはじめ、まず「永田」であることを認めた。刑事の間髪をいれぬ厳しい追及に群馬県下での連合赤軍関係の12人殺害の事実を認めた。


 さらに奥沢や11日自首した前沢、少年兄弟2人の「永田は丹沢や大井川の山岳アジトでもやっている」との供述を告げたところ「そうだ」と認めたという。


 血の粛清をした事実については「15」の数をあげているが、どこでたれを殺したのかは、まだはっきりとはいっていない。人数と場所の関係については、森、奥沢、前沢の供述を総合すると、西丹沢では男女2人、多い側では男1人になっている。


 「永田自供」のニュースは毎日だけが一面で報じた。朝日と読売は翌日の朝刊に掲載されることになる。不思議なことに毎日はたびたび他紙より1日早く記事になる。「15人」というのは何かの間違いだろう。翌日の朝日、読売では「14人」と自供したことになっている。


■永田洋子の残忍さ 女はみんな丸坊主(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 毎日 夕刊11

 12日、榛名山で発掘された小嶋和子の頭髪はわずか1センチ。迦葉山で発掘された金子みちよ、大槻節子の頭髪もほとんど同じ状態だった。これらの被害者は「イヤリングをするのはブルジョア的だ」「物質欲が強い」「コケティッシュだ」と普通の女性なら誰でももっている"本能"を「反革命的である」と決め付けられ、永田洋子の命令で徹底的に痛めつけられた。


 「総括」-。永田のツルの一声で、たちまち両手足をしばられ、なぐられ、けられ、あげくの果てに「自己批判しろ」と長い髪をつかまれて、ハサミでバッサリやられた。いわば、女性への最大の恥辱がリンチの手始め。それは組織(仲間)への見せしめなのか、不美人と言われる永田のうっぷんばらしだったのか。 永田は共立薬科大に在学中、目が飛び出るバセドー氏病にかかった。娘時代に、この突然の容ぼう変化は劣等感をつのらせ、自分より美しいものへ憎悪をかりたてたのではあるまいか。


 特に仲むつまじい男女への仕打ちはまるで嫁いびりのシュウトメのようにネチネチとしつこかった。大井川、丹沢のアジトを経て榛名山アジトに移り革命を妄信したグループの閉鎖社会の中で、数少ない女性リーダーとして仲間からチヤホヤされているうちに、うっ積していた美しい者へのネタミが一挙に爆発、それ以降は森をも押さえて"革命"の名のもとにやりたい放題だった。永田の目は1日中、女性隊員の行動をギラギラと追い続け、ちょっとでも男から声をかけられた女性は絶対に許さず、それが"任務"の話であっても永田の目には男女間の"恋愛行為"と写ったらしい。


 こうしてささいなことを取り上げては"総括"の対象者に仕立て上げ、そのリンチも髪を刈ることだけでは満足せず、被害者を雪の中に放り出したあとも、妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐり「お腹の子供をひっぱりだそうか」と森と真剣に協議していた。 サイギ心とネタミにとりつかれた心は、逮捕後もガンとして開かず、森をはじめ逮捕者が次々に自供した中で、1人"反抗"を続けている。その心は革命とはまったく無縁の"狂気の女性心理"といえる。


 金子と大槻の緊縛や暴力を主導したのは森である。髪を切ったのは「手始め」でなくリンチの後であり、逃亡を防ぐためだった。妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐった事実もない。金子が総括できない場合「子供を取り出すことも考える」と言ったのは森である。


■ナイフ刺し「抜くな」 永田が、とどめ(毎日)
 寺岡恒一(24)が虐殺された模様が杉崎ミサ子(24)の自供で明らかになった。寺岡は死刑の宣告を受けた1人で、森がナイフで心臓をえぐり、永田が首を絞めてとどめを刺した。森が寺岡に対して「坂口の地位をねらっていた」と詰問した。全員の厳しい追及に寺岡は「現在はそんなことは考えていない。しかし過去にそのような考えを持ったことは確かにあった」と応えた。このため森が死刑を宣告、坂東に目配せした。坂東はいきなり正座している寺岡の左太ももにナイフをつきたてた。寺岡がナイフを抜こうとすると、まわりから押さえ込んで15分間もそのままにさせた。坂口はそのナイフを抜くと、寺岡の左腕に刺し、こんども抜かずに15分間そのままにした。森はこのナイフを抜き取ると、正面から寺岡の心臓を深く刺した。
 ひん死の状態になった寺岡に、永田は杉崎にアイスピックをにぎらせ「とどめをさせ」と命令。杉崎は寺岡の首の後ろを刺した。さらに永田はヒモで首を絞め、絶命させた。


 寺岡の足にナイフを刺したのは坂東でなく森。腕に刺したのは坂口でなく坂東。「首の後ろを刺せばいいのでは」といったのは永田ではなく他の誰か。ヒモで首を絞めたのは永田ではなく他のメンバーたちである。首の後ろを刺したのもヒモで首を絞めたのも、なかなか絶命しない寺岡を早く楽にさせてやりたいという気持ちからであった。


■「七人委」が殺人儀式 指名の証人、次は被告(読売)
 これまで森らは全員が裁判に加わったと自供していたが、前言をひるがえし、7人が合議のあと森と永田が最終結論をくだしたという。"総括"とするか"死刑"とするかを宣言したのは森で"判決"があると全員が"被告"にとびかかって縛り上げ、次々になぐるけるのリンチを加えた。


 永田は、刑の執行をながめながら被告の行状を口汚なくののしり、"被告"が助けを求めても、「だれがお前の潔白を証明できるのか」と誘導尋問し、仲間の一人を名指しすると、名がたらはその名指しされた仲間にいっそう激しく暴力をふるうよう命じていた。この証人探しは森、永田にとっては、次の被告選びでもあったという。


 永田は”被告"の行状を大げさにののしったのは確か。かなり迫力があったらしい。だが、証人探しはしていないし、次の被告選びということもなかった。


■チリ紙をとって、といっただけでも(読売)
森恒夫などの自供で、児島和子ら4人の総括と称される処刑理由が明らかになった。
小島和子=●男と肉体関係を結んだ●組織の指示に従わなかった。
尾崎充男=●合法活動をしている者に銃器の保管場所を教えた●寝袋に入ったままチリ紙をとってくれといった。革命的でなく甘えている。
加藤能敬=●小島和子と肉体関係を持った●作業態度がよくない。
進藤隆三郎=●女遊びばかりして革命実践に対する意欲がみられない。


 同じ記事が3紙とも掲載されているから公式発表と思われる。こういう些細なこと(しかも過去のこと)が、総括要求となり、死へのリンチに発展した。


■兄貴も浮かばれる(読売)
 「ああ、これでよかった。兄貴もやっと家へ帰れるだろう」-加藤倫教(19)は兄、能敬の遺体が発掘されたと知ると、こうつぶやいた。「線香を立てて、兄のめい福を祈らせてください」と係官に頼み込んでいた。「リンチが終わったあと、弟のこっそり"この日を兄貴の命日にしよう"と話し合った」とポツリポツリ語った。


■森、永田は再三上京 前沢ら自供 土田邸事件とも符号(朝日)
 この自供は前沢、山本ら。森は「あの事件はわれわれではない」と土田邸爆破事件の犯行を否定したが、上京して何をしていたか、については供述していない。しかし長野県に逮捕されている被疑者の中で「あの事件をやった」としていることなどから、事件解明を急いでいる。


 「土田邸爆破事件」とは、土田国保警務部長の私邸に届けられたお歳暮に見せかけた爆弾が爆発し、夫人が即死した事件。警察はメンツにかけて犯人逮捕にやっきになったいた。これは連合赤軍の犯行ではない。後に、活動家18名が逮捕・起訴されるが、公判中に捜査当局のデッチアゲが明らかになり、全員無罪となる。



■リンチはこうして 「総括」は夜中に 理由はどうにでも 永田は手を下さず(朝日)
▼午前2時
 森の「起きろ」の声が犠牲者の出る人民裁判の開始を告げた。「だから夜中が恐ろしかった」と恐怖を語る自供が多い。裁判にかける理由はさまざまだが、異様なまで永田が嫌ったのは男女関係だった。アジト移転のときオムツを袋に入れる山本保子を手伝ったという理由で、夫の順一が殺された。死の直前に「オー、オー」と大声を上げているのを聞き、永田は生き残りの妻保子に近づいていった。「何いってんのよう」「赤ちゃんを呼んでいるのかもしれない」「違うわよ。あんたを呼んでいるのよ」。このあと保子から4ヶ月の赤ちゃんを引き離したりもしている。保子を恐怖でナマ殺しにしていたわけだ。


 理由は何でも良かった。ささいなことを取り上げて、妊娠8ヶ月の金子みちよ(24)を3日間も立ったまま屋外に縛りつけて殺してしまうのだった。女が女を憎むとき、もっとも陰惨なリンチとなって現れていた。


 山本順一が総括要求された理由は運転技術が未熟なのを認めなかった点と暴力に否定的で「物理的に手伝っただけだ」といったこと。「オムツを袋に入れるのを手伝った」からではない。


▼素手
 「総括」は立ち直りを「援助」する名目だった。処刑・リンチに幹部はナイフで「兵士」は素手で全員が参加した。


 ナイフやアイスピックは「死刑」の場合に使われたのであって、幹部以外も使っている。「総括」の場合は幹部を含めて刃物は一切使っていない。「死刑」と「総括」は区別されていた。


▼寝袋
 総括にかかりそうになって助かったのは、ただ1人の運転手だった奥沢だけ。処分が決まるとたちまち縛り上げられたり、ナイフを突き刺された。処分が出されてしまえばそれで終り。大槻と金子と山田は縛られたまま寝袋に入れられ運ばれた。..遺体解剖で胃に食べ物が入っていたものはほとんどいない。


▼罪状
 リンチのときに永田はいつも叫び続けた。犠牲者の罪状をあげて責め続けた。これが総括の集団ヒステリー的空気をさらにあおった。しかし永田自身はけっして手を下さなかった。永田は自ら実行しないことで「手が汚れていない」と言い逃れをしようとしたのか。


■これがアジトの生活 幹部はパン食、銃訓練 兵士は雑炊、たきぎ集め(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊03

▼生活
 森らはパンやミルクなどうまいものを食べることが多く、大部屋組は土間で麦・野菜・魚のカンヅメを使った雑炊が多かった。森か坂口が「食べろ」と合図するまでハシに手をつけられなかった。大部屋組は「革命」のためには多少の空腹に耐えて体を鍛えよ」と幹部から言われていた。...昼間は小屋作り、たきぎ拾いが作業の中心で、永田以外の女は交代で買い物に行かされた。夜は6時に寝た。


▼人民裁判
 .いっさいの反論は許されず、他の活動家の弁護も聞かれなかった。幹部7人いても追求するのは森・永田の2人で、独裁的な"判決"が下されていた。.幹部のうち寺岡と山田も殺されたが、その理由については幹部以外には知らされなかった。


▼訓練
.. 7人の幹部は腹心の青砥と植垣をつれて9人で銃器をもち、アジトからさらに数キロもはなれた山奥へ向かっていった。留守組はアジト作りに終われ訓練らしい訓練をしていなかった。山奥に訓練に出かけた幹部は半日ぐらい帰ってこないことがあった。


 連合してから射撃訓をしたという話は彼らの手記には書かれていない。


▼学習
 .テキストやパンフレットの使用はほとんどなく、森が連合赤軍の精神について1人でしゃべりまくることが多かった。それに対して意見を述べたり討論することもあった。反対意見も許されたが武装ほう起の路線をはずれたり、批判することだけは許されなかった。


 永田はたびたびレジメうぃ作ることを森に申し入れるが、森はこれを無視し続けた。森にとってはメンバーを革命戦士に飛躍させることが最大関心事だった。


■取調べ軟化 永田洋子(朝日夕刊)
 12日、永田は係官の点呼に「ハイ」と初めて答え、永田であることを認めるなど、態度を軟化させ始めた。この点から事件の本筋についての自供も間近いとして、本部は追及に全力をあげる。また、奥沢から「ほかにもう2人ぐらい殺されている、という話を聞いている」との供述を得たため、事実かどうかの確認を急いでいる。


 群馬県内以外にも連合赤軍のリンチの被害者がいる、との情報について、警察庁は疑問を持っている。警察庁が疑問を持っているのは、(1)事実を目撃したわけではなく、幹部が話していたとの伝聞である(2)前沢虎義、寺林真喜江らは「そんなリンチがあれば次の榛名アジトなどへはこわくて参加しなかった」とはっきり否定しているなど。


 読売夕刊には以下のように報じられている。


 長野県警本部の得た自供は森恒夫の「永田洋子からの伝聞だが、京浜安保共闘だけが集結した丹沢アジトで粛清があり、男女2人が殺された」というもの。さらに青砥ら2人が「丹沢か、奥秩父、大井川上流アジトで、やはり粛清があったらしい」と供述した。


■すらすらだんまり 表情も様々"死刑執行人"(読売夕刊)
▼森恒夫(27)
 「同志の死は、ムダにはしない。殺したのは、命を捨てて革命を進めるための人柱だ」と彼ら一流の"総括"について、さる8日、上申書を書いて"殺害"の一切を自供した。さらに永田洋子が漏らしたという丹沢アジトの京浜安保共闘だけの粛清についても自供。夜中に「ウーン、ウーン」とうなされたり、大きな声で寝言をいう。しかし、都内の一連の爆破事件、土田邸爆破事件については、ひとこともしゃべらず「われわれの闘争、粛清については、法廷であきらかにする」とむっつり。殺人以外の事件については、警察を権力と敵視する態度はくずさないが検事とは対話する。


▼永田洋子(27)
 山田孝、山本順一らの死体発掘を知らされたときも、ただ頭をたれただけだったが、この日、群馬県内で最後の12体目が出たことを告げられても無表情。名前も明かさない終始完全黙秘を続けている。森の書いた上申書に「フン」といって横を向き「森さんが、こんなものを書くわけがない」といったのが口をきいた最初。朝の点呼さえ、返事もしないかたくなな態度をとり続けた。ただ13日朝午前6時の点呼で「永田洋子」と呼ばれるとはじめて「ハイ」と答え、追求に「考えさせてください」。


▼坂東国男(25)
 独房の中では食事のときだけ看守のほうを向くが食べ終わり「こっちを向け」といっても、また瀬を向けてすわり続ける。東京から来た保坂節雄弁護士(27)との面会も拒否。「知らねえ人の差し入れは受けない」とみんな断り、1食62円の食事だけ。11日夜は山崎らの遺体埋葬現場の写真を見せられ、顔は真っ青になったが、死人のように口をつぐんだまま。


▼吉野雅邦(23)
 いぜん、何を聞かれても顔をそむけ、無表情に黙秘を続けている。まだ自分の名前すら言っていない。さる10日、自分の子を身ごもっている内妻、金子みちよの死体発掘を知らされたが、表情ひとつ変えなかった。


▼坂口弘(25)
 次々と明かされるリンチ殺人を聞かされても完全黙秘を続け、表情、態度に大きな変化はない。わずかにリンチ死体が発掘されてから、ふてぶてしい態度を和らげてきている程度。雑談にも一切応じず「便所」といった必要以外の言葉は話さない。


▼青砥幹夫(23)
 調べ中、気弱そうな目でジッと一点を見つめたりする。リンチ殺人についてはほぼ供述を完了したが、山本保子の脱走についてはほかの幹部が「子供を人質にしておけば逃げないとみていたが、子供をおきざりにして逃げてしまい、計画が狂った」ともらしていたのを聞いていると言う。


▼奥沢修一(22)
 早くから自供を始めたが、1月中旬以降に合流したため、公判のリンチ殺人を目撃しただけ。迦葉山の三遺体を埋めた場所を自供、案内した。新たな自供をしそうな気配を見せているが「森さんを尊敬しているので、森さんのことはあまり言えない」としぶっている。最近は安心したのか、夜半に2、3回寝返りを打つ程度でよく眠り、よく食べている。


▼伊藤和子(22)
 入浴の介添えに当たった婦人補導員に「人間とは思われない」といわせた和子が自供をはじめたのが10日夜から。「仲間の遺体がでたぞ」と知らされると、総括にあった"同志"の名前を次々と上げるなど、これまでのつき物がおちたように語りだした。しかし、法廷に出たとき、仲間の報復を受けるのではないか-という恐怖感が強く、時々「しゃべっても大丈夫でしょうか」と取り調べ官に不安を訴えている。


■主導権争いで自滅(読売夕刊)
 殺人と言う手段がとられた裏には、丹沢ですでに殺害の実績"をもつ永田が、森ら赤軍派に革命への献身度を誇示して同じ方向をとるように迫ったためだった。同じ過激路線の赤軍派は京浜安保共闘の銃強奪事件で「遅れをとった」として強いコンプレックスを持ち、一連の金融機関襲撃作戦を始めたと言われ、当局ではこうした背景と"強固な革命軍"結成へのあせりがからみあって、森も永田に同調していったとの見方を強めている。


■破滅の魔女 脱落者は消せ 鬼のような絶叫(毎日夕刊)
 事件の全容が明らかになるにつれ、永田の残虐さが説きに際立っている。毎晩開かれる会議で「脱落した者はどうせ戦いには加われない。われわれの殺しの訓練台に使おう」とまくしたてた。「やっちまえ」と毎日絶叫する永田。シーンと静まり返ったアジトで「男だろ。もっと強く首を絞めろ」。スジ金入りの戦士をアゴで使う永田。森恒夫も坂口弘、坂東国男ら中央委員も黙々と永田の指示にしたがうだけ。


 永田の姿は都内各地のデモでもよく見られた。髪をふりみだし、ツバを飛ばし「イヌ」と警官に叫ぶ永田の姿には"女性"を見出すことはできなかった。 しかし、その永田も幼いころは成績優秀なおとなしい女の子だった。「大きくなったら薬剤師になる」が夢だった。微妙な変化が見え出したのは高校時代。世の中は"60年安保"で騒然としていた。「人生、学問とは何か」-永田は思い悩んだ。さらに共立薬科大時代、バセドー氏秒をわずらい、目が異常に突起してから過程でも激しく泣きわめいたりするヒステリックな女になった。


 丸顔、色黒、ギョロ目、上歯がやや突き出た感じ(警察庁の手配書)-異性とのつきあいも少なく、男性コンプレックスに陥っていた永田は、大学を出て病院勤めをしているうち、心臓病で悩む坂口と知り合い、ウルトラ過激派へ-狂気の殺人集団へ突っ走っていった。


 「脱落者を殺しの訓練台に使おう」「男だろ。もっと強く首を絞めろ」などと永田は言っていない。。「やっちまえ」とも言っていないと思われる。坂口や坂東はともかくとしても、森恒夫が「黙々と永田の指示にしたがうだけ」ということはなかった。


■いま"狂信"に泣く 山本保子(毎日夕刊)
 「私は夫と行動をともにしようと群馬のアジトに入った。みんな連合赤軍の同志です。やっと見つけたアジトで、きっと温かく迎えてくれるだろう、楽しい共同生活ができる、そう信じていた。しかし私をまっていたものは、あまりにも過激なオキテ、狂った倫理だった。人間無視の生活。永田のガラガラした、ヒステリックな声が毎日響き、同志が次々と殺されていった。永田がにくい。」


 永田のヒステリックな言動はメンバーの手記にもたびたび出てくる。スタインホフ氏の「死へのイデオロギー」によれば、「永田のやり方は主に個人的に批判をぶつけるというもので、あとであたたかく接することによってバランスをとっていた」。だがそれは革命左派時代までで、連合赤軍になってからは、暖かく接する余裕はなくなっていた。


■「自分が恐ろしい」 杉崎みさ子(毎日夕刊)
 「今回のような人間として許せない残酷な、目をおおうばかりの殺人行為をしてきた自分自身が恐ろしく、また、なくなった方々のめい福を祈る心境から深く反省し、哀悼し、今後自分自身もこれを機会に真人間になって新たな出発をし、両親のヒザ元に帰り、親孝行をしたいと思っている」


■(広告)週間サンケイ臨時増刊号

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊CM

ソノシートの付録つきとういうのが当時ならでは。

この時期、週刊誌は連合赤軍特集の臨時増刊号を出している。だが、それは結果的にあさま山荘までの"前編"になってしまった。各誌とも後に粛清事件を特集したもう一冊の臨時増刊をだすことになる。


■その他の記事
・森は「新党は銃器を使って都市でせん滅戦を展開するのが目的だった」と述べている。(朝日)
・京浜安保の岩田平治(21)が死体運びをしていた事実をつきとめ森林法違反で指名手配。(毎日)
・逮捕者の中には殺された犠牲者の衣服をはいで着ていた者もいることがわかった。(朝日)
・加藤兄弟の父は小学校教員を辞任し毎日「どうしてだ、どうしてだ」と頭をかきむしっていた。(読売)

・前沢は「人を信じあうことは尊いことだ。更正したい」と素直な態度。(読売)
・篭沢の現場検証で奥沢はあきらめきった態度。質問に素直に答え状況を説明。(朝日夕刊)
・群馬県警は、けさも寺岡恒一(24)、行方正時(22)、遠山美枝子(25)の3人の遺体を発掘。(毎日夕刊)