1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■丹沢リンチ 永田洋子が動機自供(毎日)

 永田は「これまでの10年間の闘争生活は楽しいことばかりだった。こんど逮捕されたのは路線に誤りがあったためである」と、いままでになく反省の態度を見せた。さらに「丹沢アジトでは男1人女1人を殺した」と事件の事実を認め、殺害した理由については「京浜安保共闘のメンバーで1人がアジトから脱走をはかった。もし警察に寝返りをした場合、アジトは発見され、組織の機密が守れなくなると思い、このあと2人を総括にかけて殺した」と、はじめて動機について供述を始めた。


 いままでは丹沢アジトのリンチについて「森さんがそういっているのならそうでしょう」とか、森の供述を「そのとおり」とか、消極的自供しかしていなかったが、この日は、初めて自ら犯行を認めた。場所については地図で場所を示すそぶりをしたが「私は死体を運んでいないので、くわしくはわからない」と述べた。


 永田は「裁判所では私が最も信頼している森恒夫と共闘して法廷で闘う」と延べ、リンチ殺人事件を自供した森に"裏切り者"として反発していた態度を急にやわらげた。 また永田はノート数枚に「あなたと誓い合った約束は忘れていないが、こうなった以上はやむをえない。われわれは敗北した」という意味の森宛の手紙を書いた。


 2人は「総括」にかけたのではなく、騙して連れ出し、いきなり暴行を加え死亡させた。

 永田は「手紙を出す許可」は下りたものの、「学習許可」が下りなかったため、房で筆記用具を使うことはできず、手紙を書くときは別室で筆記用具を借り、30分以内に書かなければならなかった。すぐに森と坂口に手紙を出したが、坂口には離婚表明したことを謝った。「あなたと誓い合った約束」とは完全黙秘のことだろうか。



■岩田の同級生も犠牲? 丹沢アジトで総括か(朝日)
 岩田から「丹沢アジトにいた頃、京浜安保共闘の向山茂徳(21)が殺されたのではないか、という話をきかされた」との自供を得た。このため岩田は大井川アジトに移ったころ、坂口、吉野らにこの点をただしたところ「お前の知ったことじゃない」いうような意味のことを言われ、そのままわからずじまいになったという。


■寺岡が独断で許可 山本親子のアジト入り(読売)
 「七人委」のメンバーだった寺岡が死刑を受けたのは、山本夫婦がアジトに頼良ちゃんを連れてきたことが「七人委の許可をとっていない」と問題になった際、寺岡が独断で山本夫婦に許可をあたえたことがわかったため。「独断は反革命的な行為だ」と永田らが強く主導、死刑に決まったという。


 寺岡の死刑は、革命左派時代に永田・坂口をおろして自分が主導権を握ろうとした、という過去の出来事が理由だった。寺岡は詰問され暴力を受ける中で、ありもしないことを"告白"する。坂東とアジト予定地探しに行ったとき「坂東を殺して逃げようと思ったが、スキがなくて逃げられなかった」といい、みなの怒りを買った。しかし、当の坂東は、自分が寝ている間に朝ごはんを作って起こしてくれたことなどから、「おや?」と思ったという。


 寺岡同志への追及が始まり、「永田同志や坂口同志がつかまればよい、そうすれば最高指導者になれる」という告白から怒り、そのあと「私を殺そうとした」というのを聞いて、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。だから、次々と為される"告白”-金をとって王宮を作ろうとしたとか-を遠い世界の他人のことのように聞いていたのです。(「永田洋子さんへの手紙」)


■ラーメンでも総括(朝日)

 金子みちよの総括の1つにラーメンがある。アジトでインスタントラーメンを食べていたとき、「お腹の子供のためにもうひとつほしい」といったところ、永田洋子が「ブルジョア的で物欲が強い」と怒り、内縁関係の吉野の足をひっぱったことと合わせて、リンチされた。


 金子はラーメンで総括されたのではない。尾崎が坂口と決闘をさせられた際、席をはずしたことをとがめられた。「あんなことをしても尾崎君は立ち直れない」と批判的に言ったことから総括対象になった。他にも、下部メンバーに官僚的であるとか、吉野に頼りすぎているとか、総括の理由をつけられたが、実質的には「死刑」であったといわれる。事実、森は幹部に対し「金子は女の寺岡だ」「子供を取り出すことも考えなければならない」といっている。金子は幹部に対しても批判すべきことは批判し、暴力に対しても最後まで屈服しなかった。しかしその毅然とした態度さえ、森に「お腹に子供がいるから総括されないと思っているのだ」と決めつけられてしまう。


 対して、同じ時期に総括にかけられていた大槻節子は終始素直な態度だったが、森に「優等生的だ」ととがめられている。総括にかけられたら助かる道はない。


■だんまり三人男(毎日)

▼坂口弘(25)

 取り調べのために「外へ出ろ」というとくるりと背を向けてしまう。食欲はすさまじい。留置場の定食のほか、さらに必ず1回に食パン5枚を平らげる。思い出したようにはくことがある。「ミカンをくれ」「便所」-。


5月4日の読売では「房内で食べるのは実費62円の至急弁当だけ」となっている。


▼坂東国男(25)

 警官が入り、2人ががりでかかえるようにして調べ室に入れる。いすに座ると真正面を向いて目をとじたまま。なんとも攻め手がないといった状況だ。


▼吉野正邦(23)

 自分の名前すら認めていない。高校時代の話で水を向けると「そんなことは関係ない」とどなる。凍りつくような目でにらむ。ただ14日には「いい天気ですね」といいい、長い髪をつかんだりしていた。


■軍建設へ徴兵制 「銃が最高の兵士 人はいくらでも補充」 青砥自供

 青砥らの自供から軍建設のために「徴兵制」をしいていた事実をつきとめた。森恒夫らは150人近い活動家の中から、次々と「兵士」を招集、過酷な訓練についていけない「「兵士」は死の処分にするという軍律を確立していたという。「銃こそ最高の兵士、人間はいくらでも補充できる」-その軍律は人間蔑視で貫かれていた。


■この徹底的差別 革命という名で "どれい" 扱い(読売)
 寺林の自供によると、迦葉山と妙義アジトでの食事は、森、永田ら七人の中欧委員は別室でパンやミルクなのに対し、兵士は大部屋で円陣をつくり、麦や野菜をまぜた雑炊をたべさせられていた。幹部たちは「革命遂行のため、兵士は粗食に耐える訓練をせよ」と命令し、幹部が合図するまでハシを持つことさえもできず、幹部は食後にコーヒーも飲んでいた。 また、寺林は永田から会計係を引き継いだが、出納簿は1円にいたるまで、克明に記入され、森、永田は金銭の横領は「総括」の対象だと、おどしていた。


 岩田の自供によると、西丹沢では、武闘訓練が行われ、幹部だけが小屋に入り、小屋のハリには猟銃など銃が5丁乗せてあった。兵士は小屋の付近にテントを張って寝起きし、"革命戦士を育成する"ということで、夜間のタキギ取りのほか、炊飯、洗濯をさせられ、学習、討論もするというきびしい生活だったという。このため脱落者が相次いだこととから、アジトを変えることになり、点々としたあと11月末に榛名山に移った。


 革命左派時代の山岳アジトは岩田の自供と異なり、和気あいあいとしていたと証言する人も多い。連合赤軍結成前に森たちが革命左派のアジトを訪ねたとき、こんなエピソードがある。


 妊娠している金子さんが山岳で子供を生むということが話題になった。森氏が、これにたいして目を丸くして、「ムチャだ。大体予防接種なんかどうするんや。こんなところで育てられるはずがない」と言った。革命左派の女性たちは、森氏の発言にワイワイと反論し、山岳ベースでも子供を育てられるようにしてゆくのだ、そのために協力すべきであり、足を引っ張るべきではないと主張した。森氏はあくまでも「ムチャだ」といっていたが、「金子さん用に肝油を手に入れよう」といいだした。これに革命左派の女性たちは「ウァー」と歓声をあげた。(「十六の墓標(下)」)


■悪霊の世界(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-15 毎日 夕刊11

▼ろうそく集会
 夜の討論はろうそくをともして行われた。車座になってすわるが、山の寒さはピリピリするほどだった。その風景を、2人の少年は「今思うとぞっとするほどこわい」という。
 討論では、いつも森恒夫と永田洋子が話した。坂東国男、吉野雅邦、坂口弘なども発言をするが、他のものはあまりものはいわず、ほとんどが下を向いて聞き入っていた。 森はよく「オレは中国に行きたい」と話していた。永田はいつもヒステリックで、つねに討論の主導権を握っていた。残酷なことや他のものに対する批判は、ほとんど永田から出た。


 このあたりの様子は、永田の「十六の墓標(下)」、坂口の「続・あさま山荘1972」、植垣の「兵士たちの連合赤軍」に詳しく述べられている。それによると討論の主導権は常に森であり、永田は過激な言葉で森に同調していたようだ。永田が摘発→森が問題視し詰問→永田が同調して煽る→森が暴力指示、という流れのようだ。


▼マキ割り
 幹部たちは、銃の訓練をしに山奥へ出かけていったが、他のものは一日中マキ割りやアジトの修理、タキギ拾いなどをさせられた。しかし、必ずどこかで監視の目が光っていた。ときどき銃の訓練もさせられたが、青砥幹夫らはマキ割りで、てのひらはマメだらけになり、銃がよく持てず、ねらいが定まらないので、坂東から「モタモタするな」とどなられた。それでも言い訳は許されなかった。「総括!」と、いつ言われるかわからないからだ。永田以外の女はよく山をおりて食料や日常品を買いに行かされた。それでもお互いがつねに監視しあう方法がとられた。


▼麦と赤軍兵士
(省略。読売の記事とほぼ同じ)


▼マラソン競争
 榛名山アジトから迦葉山アジトに移るとき、忘れものをしたので、みんなアジトに走って戻った。坂口が1番で青砥が2番だった。坂口は「心臓が悪くて坂を上るのもムリ」といわれていたが、それはとんでもない間違いだった。髪をハサミできるのは坂東だった。坂東は手先が器用でハサミをうまく使った。


▼新月が羅針盤
 アジトからアジトへ移るときは新月の晩だった。月光をたよりに、暗い山道を歩いた。山登りに自信がある青砥がいつも先頭。だれもが4、5回疲れと寒さで倒れた。それでも銃だけは決してぬらしたり、放り出すことは許されなかった。


▼次のアジトは八溝山系
 ラジオで追求の手がのびたのを知り青砥が「八溝山にしよう」と提案した。八溝山のふもとに青砥の親戚があり地理にくわしい。「少なくともそこへ行くまではオレが案内役だから殺されない。八溝山へ行けば、地理に詳しいので逃げられると考えていたからだ」という。アジトを移すごとに殺されるものもふえていく。そして最後には、いったいだれが残ることになったのだろうか。


 このとき、寺岡と山田はすでに死亡していて、森と永田が逮捕されたから、幹部は坂口、坂東、吉野しか残っていなかったし、すでに総括もおこなわれていなかった。しかも山岳逃避行の最中だから、逃げようと思えばなにも八溝山までいかなくても、いつでも逃げられそうなものだ。後年、青砥は「離脱するつもりはなかった」とインタビューに答えている。


青砥「バスに乗ったままだと軽井沢に行ってしまうことは僕も植垣もわかっていた。でも見て見ぬふりだった」

 荒 「どうして?」

青砥「もう疲れきっていたんです」

 荒 「連赤を離脱しようとは思っていなかった?」

青砥「離脱しようとは全然思っていなかった」

 荒 「もうどうなってもいいとも思っていた」

青砥「というより、正常な判断力を失っていたと思う」

「破天荒な人々」


■その他の記事

・寺林は会計を任され、女性ではナンバー2であった。(朝日)

・この日森は取り調べには応じず、上申書に続く"執筆"を行った。(朝日)

・頼良(らいら)ちゃんの祖父は「黙っていたが名前はあまり気に入りません」。(毎日)

・寺林は京浜安保共闘の丹沢アジトで手投げ弾20個をつくったと自供。(毎日)

・森は「革命は決して間違ってはいない。その方法に誤りがあった」と自己批判。(毎日)

・森は「森」と呼んでも返事しない。「渋川21号」といえば「ハイ」。(毎日)

・発掘現場はまるで観光名所の様相を呈している。(毎日)