織田信長の最後の場面である本能寺の変は大河ドラマなどで頻繁に取り上げられている題材である.織田信長を題材にした映画がこれまで国内で6,テレビドラマで主人公として登場したのが16以上ある.脇役だともう数えきれない.
ところで,本当は本能寺の変は如何なるものであったか?織田信長は裏切った明智光秀の部隊による火攻めで追い詰められて本当に自害したのか?これだけテレビが何度も何度も大衆に織田信長の最後のストーリーを頭ごなしに植え付けようとする裏には何かを隠したいという意図があるに違いない.テレビの偏向報道にこの十数年間振り回されて来たのだから,気の利いた人ならばいい加減気付きそうなものだが….
扨て,窪田志一氏はその著書でズバリ,織田信長を刺殺した下手人はその当時の易断政府首脳の稲羽姫であるとして記している.稲羽姫は岩屋梓梁の孫にあたる.系図を次に示す.
易断政府王女稲羽姫の周辺の系図
即ち,稲羽姫は岩屋梓梁の娘の鶴姫と後奈良天皇の嫡男尊仁(たかひと)親王との間に生まれた子女である.通説では尊仁親王は後三条天皇のこととされてしまっている.尊仁親王と岩屋梓梁の足跡については徳川時代に源義経と武蔵坊弁慶の物語として擬制されたと窪田氏の著書には記されている.源義経は実在の人間ではない.本能寺の変に関する窪田志一氏著の本に在る記述を一部抜粋して示す.
桶狭間と本能寺を襲撃したのは易断衆軍
■窪田幕府になる筈だったのだ
伊集院窪田真方衆は代々後奈良天皇の血を享けた皇孫という矜持を抱き,「窪田幕府になる筈だった」という強い伝承に生き,打倒徳川幕府という凄まじい執念に燃えて来た.
というのは,天正10年(1582年)6月2日早暁,本能寺に信長を討ったのは明智光秀軍ではなく齋藤利三の指揮する三千の易断衆軍が本能寺を包囲した上で,真方衆の祖である王女稲羽姫が,単身信長に謁して信長を刺殺したもので,その謀略に関する易断党側(窪田相安?,本田正信,酒井忠尚,窪田長安),家康側(家康,茶屋四郎次郎,本田忠勝),明智側(光秀,齋藤利三,明智光春)の愛宕山頂将軍営における事前の談合で,亀山に待機した明智光秀軍は,信長が稲羽姫に討たれて易断衆軍が本能寺に乱入したという急報に接したら,直ちに出動入京して織田信忠軍を討って京洛から畿内,畿外を制圧して家康軍の西上を待ち,家康に協力して家康の天下取りを支援し,家康は天下を取った後は,稲羽姫の長子窪田兼相を次期将軍として引き継がせるという固い盟約があったからからなのである.
要するに,信長はイエズス会のフロイスに唆されて易断政府の本拠地である石姫山高津八幡宮(現大阪城)を1580年に追い落とした.主流学者が信じる歴史ではこの事件を一向一揆による石山合戦として歪曲している.その復讐の為,稲羽姫らは薩摩の窪田家橋口家他の武士団や徳川家康らと談合密約して信長を討ったというのが真相である.稲羽姫については「岩屋梓梁秘蔵の銘器を信長に献上すると称して信長の座席の前に膝行し…飛燕一閃して信長を刺殺した」,「単身信長に閲して信長を刺殺するとともに自らも切られた人物」とある.イエズス会は現在にまで続くDSの一味である.現在に至っても尚,DSが操った信長を子飼いのテレビマスコミ連中に盛り立てさせてドラマにしているという,なんとも情けない有り様が続いているのである.
豊臣秀吉と徳川家康については以前話題にした.
以上のように,戦国時代のみではなく幕末・明治維新から西南戦争までの真実を語る為には大偉人岩屋梓梁を無視できない.織田信長をドラマでやるのはもうやめろと私は言いたい.バレているぞ.その代わりに岩屋梓梁を題材にした映画やテレビドラマを制作してみよ.そうすると,日本や世界の歴史が根底から覆る.私はそういった劇的な変化が近い将来において起こるような気がしていて,凄く楽しみである.
文献
1) 窪田志一:易断政府を樹立した岩屋梓梁,岩屋梓梁と易断政府研究会,(1972).
2) 窪田 志一:岩屋天狗と千年王国 下,岩屋梓梁顕彰会,pp.214-221,(1987).