本日,2月3日と言えば節分である.Wikipediaには「一般的には『鬼は外,福は内』と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて,年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行う.また,玄関などに邪気除けの柊鰯などを飾る.」とある.本当に昔は鬼がいてその鬼を忌み嫌う民衆が魔除けの為にこういった行事をするようになったのだろうか?
 私がこのブログで度々話題にするのが弥次郎こと岩屋梓梁である.1500年代に日本だけでなくアジア各地で活躍した大人物である.このことは,窪田志一氏の著書に深く記されている.

 

 

 窪田志一氏の著書によると,岩屋梓梁が36歳の時,1533年(天文2年)2月2日,「古事記」執筆を完了させて当時の朝廷に献上してから,北州探検に出発した.皇太子尊仁親王以下16名を率いて京都を出発し,東北,北海道,千島列島,カムチャッカ半島,樺太,沿海州,旧満州,朝鮮半島を巡る旅に出た,とある.実は「日本書紀」も岩屋梓梁の執筆によるものであるが,一部の公卿が意図的に岩屋梓梁の意向に反する記述をしてしまい,岩屋梓梁が忌避した.その所為で日本書紀を擁護する派閥との争いが勃発した.北洲探検で朝廷を2年半もの間留守にした所為もあって,当時の易断政府としての室町幕府が大いに迷惑被った.当時の天皇と武士団の威を借りた公卿軍の結束により,岩屋梓梁は自らが樹立した易断政府から追放されてしまった.後の織田信長や豊臣秀吉,徳川家康などの天下人はイエズス会のフロイスらに誑かされ唆しに乗って,岩屋梓梁の事績を抹殺する運動を継続させた.その一環としてこの北州探検で岩屋梓梁が京都を後にした日を鬼を追い出した吉日として制定したのである.鬼追いの祭りが各地に存在しているのは,そういった岩屋梓梁の後の世の天下人によるものであろう.
 現在でも日本全国老若男女問わず,2月3日は「鬼は外」と叫んで鬼を追い払い邪気を祓うという慣習を続けている.だが,本当はその鬼とは右鬢に肉腫がおっ立っていた岩屋梓梁の行蔵が発端であるということに気付いている人間は日本全国探しても極々少数だろう.

 

易断政府を樹立した岩屋梓梁

 

 日本の歴史を語る上で岩屋梓梁の存在は絶対に欠かせない.何せ,豊臣秀吉や徳川家康の父親が岩屋梓梁だからである.岩屋梓梁は3000人以上の女性と関係を持ったとされている.加藤清正や西郷隆盛も岩屋梓梁の子孫である.

 

 

 岩屋梓梁を弥次郎と呼んでフランシスコ・ザビエルを鹿児島に招いたとする事績だけに着目するように,明治以降の歴史家達は大衆を洗脳して,意図的に歴史研究の方向付けをして操作して来た.しかしもう直,全てが明るみになるだろう.明治初年に岩屋梓梁関係資料を焼却処分した東京大学教授重野安嗣や久米邦武などの犯した罪は今後益々注目を浴びるだろう.
 最後に,北州探検で岩屋梓梁らはロシアの地で一体何をして来たのだろうか?もしや,タルタリア帝国との交流の発端となるような事績を残したのではないだろうか?江戸時代は丁髷裃武士姿の和装ではなく,タルタリア式の洋装が一般的であったとするオルタナティブ歴史研究グループの見方もあるが,果たして真相は...,現時点では不明である.

文献

1) 窪田志一:易断政府を樹立した岩屋梓梁,岩屋梓梁と易断政府研究会,(1972).
2) 窪田 志一:岩屋天狗と千年王国 下,岩屋梓梁顕彰会,(1987).