岩を削り、音を立てて流れゆく
激流のその水は、
その行く手に高く深い滝が
待ち受けていたとしても
恐れずに流れ続けます。
まるでそれが、
揺るぎない自分自身の正義であると
大声で主張するかのように・・・。
そして、
激流を流れる水のように、
自分が心に決めた自分の使命を
見つけ出して、
その先に待ち受ける運命は、
「滝」しかないとわかっていても
それでも恐れず自分の
信念、美学、そして正義を
貫き通した人物のその生き方に
私たち日本人は潔さや美しさを感じ、
共感と憧れを持ち、
尊敬の念を持ちながら
深い感情の移入をするのかもしれませんね。
楠木正成、真田信繁(幸村)、坂本龍馬、
土方歳三・・・
そして、
悲劇の武将と呼ばれた
もまたそうでしょうし、
彼に付き従い、彼を護り、
共に戦い続けたこの人もまた、
私たち日本人が感情移入しやすい
人物なのかもしれません。
/////////////
武蔵坊弁慶
都で999本の刀を侍たちから
奪い取った後、
源義経を主として、
彼に常に付き従い、
多くの戦で戦功をあげた後、
奥州の衣川で義経とともに
散っていった彼は単なる
「力」
だけの人物ではありませんでした。
義経が頼朝に
自身の無罪を訴えた
世に言う「腰越状」の
草案を書いたのは弁慶と言われ、
安宅の関で、その機転と教養、
そして義経への思いを示した
「勧進帳」のエピソード。
そして衣川での最終決戦時には
その死を前にしながら敵軍の前で、
悠々と見事な舞を踊って
見せたという
「智」と「仁」と「勇」
全てを兼ね備えていたと
言っていい人物でした。
史実としては、彼は
鎌倉幕府が編纂したといわれる
歴史書「吾妻鏡」の中に、
その名が残されているだけの
謎の多い人物であり、
彼に関する多くのイメージは、
(南北朝時代から室町時代初期に
成立したと考えられている、
源義経とその主従を中心に
書いた軍記物語)
から始まっていると言われています。
それでも私たち日本人にとって
もしかしたら、
史実以上に史実である
義経・弁慶主従
の物語を単なる空想物語に
とどめるのは、
(私個人としては)
非常に惜しく感じるので、
今回はこの、
「義経記」の記載を
「私にとっての史実」
と想定して、
弁慶の言葉
そして
義経・弁慶主従の絆
について
ご紹介したいと思います。
【安宅住吉神社 の弁慶像】
////////////
【「義経記」巻第三 『弁慶義経に君臣の契約 申す事』より】
「これも前世の事にてこそ
候(さうら)ふらん。
さらば従ひ参(まひ)らせん」
-現代語訳-
(義経との勝負に自分が負けたのも)
「前世からの約束事かも知れない。
ならば従おう」
弁慶 対 義経(牛若丸)の
五条大橋での決闘は有名ですが、
義経記では、
この決闘は清水観音の境内で
ということになっています。
(義経の時代には五条大橋は
まだ建設されておらず、
「五条大橋での決闘」
は明治に入ってからの
創作だそうです)
弁慶はこの決闘の末、
義経を主と認め、
それを前世からの宿縁と感じ、
自分の一生をかけての使命を
その瞬間に見いだしたのでしょう。
そして
以後、この時の約束通り
弁慶はその生涯を通して、
命をかけて義経を護りながら
付き従ったのです。
義経記では、
上の弁慶の言葉の後、
こう書かれています。
「その時見参(けざん) に
入り始めてより志 また二心なく、
身に添ふ影の如 くして、
平家を三年(みとせ) に
攻め落とし給ひしにも、
度々(たびたび)の
高名(こうみょう)を極 めて、
奥州衣川 (ころもがわ)の
最期の合戦 まで御供 して、
遂 には討死 したりし
武蔵坊弁慶これなり」
(この時、家来になって以来、
異心を挟むことなく、
まるで身につき従う影のように
御曹司の身辺を離れず、
源氏が平家を三年の間に
攻め落とされた際にも、
度々武功を立て、
奥州の衣川での
最後の合戦の時までお供をして、
ついに討死を遂げた
武蔵坊弁慶というのは、
この法師の事だ)
義経・弁慶主従の長い長い戦いと
その中で紡がれていく強き絆の物語は
ここから始まったのでした。
//////////
【歌舞伎 「勧進帳」より】
弁慶:
「それ、時は末世に
及ぶといえども、
日月(じつげつ)いまだ、
地に落ちたまわず。
ご幸運、ははぁ、
ありがたし、ありがたし」
(まったく、今の時代は乱れていて
末世となっているにもかかわらず、
我々を助けてくれる日や月は、
いまだに地にお落ちに
なってはいない。
義経さまのこのご幸運は
ありがたいことだ)
「計略とは申しながら、
まさしき主君を
打擲(ちょうちゃく)、
天罰、空恐ろしく、
千鈞(せんきん)も上ぐる、
それがし、
腕もしびるるごとく覚え候。
はあぁ、もったいなや、
もったいなや」
(計略であったとはいえ、
まさに自分の主君である方を
打ちのめすとは、
自分に降りかかるであろう天罰が
なんとも恐ろしく、
千鈞の重さでも持ち上げるような
力持ちの私ですが、
腕がしびれて動かないように
思えました。
畏れ多いことです)
唄:
ついに泣かぬ弁慶の
一期の涙ぞ、殊勝なる。
(絶対に泣かないような弁慶の、
一生に一度の涙は、
けなげなことであるよ)
兄の源頼朝の命令により
朝敵とされてしまい、
鎌倉幕府から追われる身
となった義経は、
奥州の藤原秀衡を頼るために、
山伏に姿を変えて逃避行を
続けました。
ところが、
奥州への関所で義経が
その姿を見とがめられて・・・。
「義経記」ではこのエピソードは、
歌舞伎の演目 『勧進帳』 で有名な
「安宅の関」
ではなく、
「如意の渡」
での出来事として語られ、
詳細の会話も異なっていますが、
ここでは「勧進帳」の中での
弁慶のセリフを引用しました。
歌舞伎界において、
「勧進帳」は、
弁慶による
白紙のはずの勧進帳の
朗々とした読み上げと、
山伏の心得や秘密の呪文についての
「山伏問答」
における雄弁な受け答え、
(これらは全て、
比叡山で修行していた弁慶の教養と、
とっさの機転によるものです)
義経の正体が
見破られそうになる戦慄感、
一行の正体を見抜きながらも、
弁慶の姿に心を打たれて
関所の通過を許した、
安宅の関の関守、富樫の情、
義経・弁慶主従の絆の深さの感動、
など見どころが多彩で、
観客を飽きさせず、
いまだに最も人気が高い
(=上演回数が多い)
演目の一つだそうです。
【松本幸四郎による「勧進帳」の弁慶】
///////////
【「義経記」巻第八 『衣河合戦の事』より (1)】
藤原秀衡を頼って奥州平泉へと
落ち延びた一行でしたが、
1187年に藤原秀衡は亡くなり、
その子の藤原泰衡は、
頼朝による再三の圧力に屈し
父の遺言を破り、
1189年6月15日(旧暦4月30日)
衣川の館にいた義経主従に
襲いかかります。
これが世に言う衣川の戦いであり、
義経・弁慶主従の最期の戦いです。
「囃せや殿原達、
東の方の奴原に物見せん。
若かりし時は、
叡山にて由ある方には、
詩歌管絃の方にも許され、
武勇の道には
悪僧の名を取りき。
一手舞うて
東の方の賤しき奴原に
見せん」
(音頭を取り給え殿たちよ、
東国の奴らに見物させてやろう。
若い頃は比叡山で、
詩歌管絃も許されて、
武勇の道では悪僧の名を
取ったわたしだ。
一番舞って東国の下衆どもに
見せてやるのだ)
(注記)
「悪僧」とは当時の言葉で
「武勇に秀でた荒々しい僧」のことを
いいます。
弁慶は
ひたひたと不気味に迫り来る
死の気配にたじろぎもせず、
味方を鼓舞するため、
包囲する軍勢を前にしながら
悠々と舞を舞い始めました。
そしてそれは、
なんらかの突破策を見出すための、
自らの命をかけた時間稼ぎ…
でもあったのかもしれません。
包囲した軍勢の
「何を思っておるのかは知らないが、
こちらは三万の軍勢であるぞ。
舞は終わりだ」
という声に対し、
弁慶はこう応えます。
「三万も三万によるべし。
十騎も十騎によるぞ。
おのれらが軍(いくさ)せんと
企つる様やうの
可笑をかしければ笑ふぞ」
(三万だろうが、
その三万の中身によるぞ。
十騎であろうが
その十騎によるのだ。
お前たちが我らと戦をしようなど、
おかしくて思わず笑ってしまうわ)
そう言いながら、
太刀を兜の真っ先に差し出して、
大声で喚きながら馬を駆けだした
弁慶の姿を見て、
敵は秋風が木の葉を
散らすように逃げだしたそうです。
しかし、
戦はやがて本格化し、
義経・弁慶主従の
「その時」
は怒濤のような勢いをもって
近づきつつありました。
そう、
一度回り始めた
「時の水車」
の勢いは弁慶の智恵と武勇を
持ってしても、
押し戻すことは
できなかったのです・・・。
【和歌山県田辺市紀伊田辺駅前の弁慶像】
/////////////
【「義経記」巻第八 『衣河合戦の事』より (2)】
戦場のあちこちで戦い続けた
弁慶はやがて喉笛を切り付けられて、
とめどなく血を流していました。
通常の者なら出血で
意識がもうろうとなるところを、
それでも戦い続けた弁慶の
鬼気迫る姿の前に
立ち塞がる敵は現れなかった
といわれています。
そして味方が残りたった一人と
なったところで、
弁慶は義経の館に戻ってきます。
とうとう、
「その時」
義経・弁慶主従のお別れの時
がやってきたのです。
「死ぬ時は一緒という
約束に基づいて、自分も一緒に戦い、
ともに死にたいが
身分の低い者に自分を討ち取らせる
わけにはいかない。
だから自分が自害するまで、
館の中に人を入れるな。
『私が死んだ後でも私を護ってくれ』
そう語る義経に弁慶は
「承知いたしました」
とだけ応え、
そして、
これが義経との
最期のお別れと悟り、
名残り惜しそうに主を見つめ、
はらはらと涙を流します。
敵の近づく足音に我に返り
戦いの場に戻ろうとした
弁慶でしたが、
ひらりと身をひるがえして
もう一度だけ義経の元に舞い戻り、
こう語ったそうです。
「六道の道の衢(ちまた)に
待てよ君
遅れ先立つ習ひありとも」
(冥土への道の途中で
待っていてください。
たとえ死ぬ順番に前後はあっても)
それは
永く苦楽を共にしてきた、主
義経に向けて
自らの心にあふれる
熱い思いの全てを込めた、
最期の
お別れの言葉でした。
弁慶の言葉を受けとめた
義経もまた、
万感の思いを込めて
言葉を返します。
「後の世もまた後の世も
めぐりあへ
染む紫の雲の上まで」
(後世もそのまた後世も
めぐり逢おう。
あの紫色に染まった
浄土の雲の上まで
一緒に行こうではないか)
義経からの返事であるこの言葉に、
弁慶は声を上げて泣いたそうです。
(これが前回のブログでご紹介した
義経の辞世の句といわれるものです。
この句は実は、弁慶からの
今生の別れのメッセージに対する
返答の歌だったのです)
戦場に戻り、
義経の館の入り口に仁王立ちして、
寄せてくる敵を討ち取り続けた
弁慶の鎧には、
いつしか数え切れないほどの
矢が突き刺さっていましたが、
鬼人となったかのような
弁慶の姿に恐れをなした敵は、
もはや一人も彼に近づくことが
できません。
「敵も味方も討ち死にしたが、
弁慶ばかりがあれほど暴れ回って、
死なずにいるのは不思議なことだ。
噂に聞くよりすごい奴だ」
敵の兵からそんな声が聞こえた
その時、
弁慶はその口に笑みを浮かべた
と言われています・・・。
「勇ましい者は立ったまま
死ぬことがあると言う。
誰か近づいてみろ」
敵の兵の一人は言うものの
弁慶を恐れた兵たちは、
それでも彼に近づくことは
できません。
ようやく
一人の武者が馬で近寄ると
弁慶はその馬に当たり、そして
・・・倒れました。
既に彼は死んでいました。
弁慶が立ったまま死に、
それでも
敵ににらみを利かせていたのは、
義経が自害するまで、
敵を寄せつけないため、
自分が死んだその後も、
義経を守護するため、
義経との約束を
最期まで守るため…。
兵たちはそう理解し、
敵であった弁慶を誉めたたえたと
言われています。
【平泉 中尊寺の弁慶堂】
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滝の音は
絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ
(大納言公任)
-現代語訳-
滝の音はずっと昔に
絶えてしまったが、
その滝の評判はずっと残り、
今日まで聞こえている
この歌の解釈は
そういったものとされていますが、
私の個人的な解釈は、
「人の命はいつか必ず終わるが、
その名声は決して消えずに
永遠に語り継がれる」
そういうものだと思っています。
史実としては、
歴史書「吾妻鏡」にその名前が
残っているだけながら、
武蔵坊弁慶
のその名は、
決して消えることなく、
800年以上もの時を超えて、
私たち日本人の間に
語り継がれてきました。
そして
主人の源義経に付き従い、
智・仁・勇をもってして、
その最期の時まで義経を護って
戦い続けたという
その名声は、
これからも永遠に語り継がれていく
ものだと思います。
私たちも、
自分が心に決めた自分の使命を
見つけ出して、
その道を信じて、
人知れずであったとしても、
何らかの形で全力をもって
世のため人のため尽くしていけば、
自分の名前は、
自分がいなくなった後の世界でも
きっと誰かが覚えていてくれて
語り継いでくれる。
そう信じて、
自分の名に恥じない、
自分の心の中にある、
正しい生き方を全力で貫いて
生きていきたいですね。
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