悪魔が昨日、し忘れたこと。@アメブロ -8ページ目

【コラム】ホワイトデーにチーズで10倍返し!?

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バレンタインデーを過ぎるとチョコレートが安売りされているので、甘党には嬉しい時期である。「そんなことしなくても、もらったチョコが沢山あるじゃないか」って? それは聞かないで!

さておき「バレンタインデーは製菓会社の陰謀だ」という人がいるが、2月14日は、紀元前に成立したローマ神話に出てくる結婚を司る女神「Juno」(ユノ、ユーノー、ジュノーなどの表記がある)を讃える日に由来しているとか。そういった歴史的背景を考えれば、決してそんなことはない。

けれどもバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、日本独自のもの。しかし「陰謀」というほどのものとは思えない。販売促進の一環としてチョコレートが選ばれた理由は「ハート」にあるだろう。

不二家ハートチョコレート」は、その名の通りハートの形をしている。けれどもこれは別にバレンタインデー用に開発されたものではないのだ。日本でチョコレートを贈る習慣が根付いたのは1970年代後半とされているが、「不二家ハートチョコレート」は1935年から発売されていた。

日本人とチョコレートといえば、1939年〜1945年の第2次大戦後に、日本の子供たちが「ギブミー・チョコレート!」と叫びながら、進駐軍の兵士にチョコレートをねだった話が想起される。けれども戦前からあったわけで、別に進駐軍がチョコレート文化をもたらしたというわけでもないようだ。

ところが1970年代後半に小中高生女子が男子に告白するためのアイテムとして、金銭的にも高価でなく手作りするのも難しくないチョコレートを自主的に選んだことから、それまで販売促進に手を焼いていた製菓会社も驚くほどの勢いで、定番のプレゼントとして浸透したということらしい。バブル期などに「女子中高生の流行が売れ行きを左右する」とまことしやかに伝えられるようになった原因も、その辺りにあるのかもしれない。

そもそもチョコレートの原料であるカカオには、恋愛成分とも呼ばれるフェニルエチルアミンが多く含まれているから、それを意中の相手に贈るのは科学的にも間違ってはいないようだ。フェニルエチルアミンが脳内麻薬物質ドーパミンを放出させることで、恋をしている時と同じ作用をもたらす。

チーズにはチョコレートの10倍もフェニルエチルアミンが含まれているとか。そうすると3月14日のホワイトデーには、チーズを使った食品を贈るのがいいかもしれない。プレゼントの金額ではなく、恋愛成分で「10倍返し」というわけである。もちろん10倍以上のラヴも添えて。(工藤伸一)

【コラム】抗議自殺や自爆テロは善行なのか?

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今年1月に始まったエジプトの大規模デモにより、2月11日にムバラク大統領が辞任を発表。1981年以降、29年間に及んだ長期政権が幕を閉じることとなった。

そのきっかけになったのは、1987年から23年続いたベン=アリー政権を崩壊させた、チュニジアジャスミン革命である。チュニジアを代表する花がジャスミンであることから、インターネット上でそう呼ばれるようになったらしい。ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命した今年1月14日、エジプトでも反政府デモが始まり、ネットでの連携や民衆のデモにより長期政権が倒された点において、非常に酷似した状況となったわけである。

ジャスミン革命は、モハメッド・ブウアジジという26歳の失業者男性が露天商をしていたところ、無許可での街頭販売を警察にとがめられたことへの抗議として、焼身自殺を図った事件が引き金になったとされている。失業率の高さを解消できない一方で規制ばかりしてくる政府への、大衆の怒りが爆発した形である。

自らの命を犠牲にして民衆に後を託したブウアジジは1月4日に息を引き取り、ジャスミン革命の英雄となった。エジプトでも焼身自殺は相次ぎ、死者も出ているそうである。それらが功を奏して革命の成功につながったと考えるべきなのかもしれないが、果たして自殺を美化していいものなのか、疑問が残る。

「抗議自殺」だけではなく「自爆テロ」も、宗教的犠牲心による聖なる「殉教」として好意的に受け止められたりすることがある。殺人は悪だけれど、自殺は善という考え方。自爆テロの場合、善と悪の複合によって、一応は善と看做されるということだろうか。自らを生贄にした呪術に思える節もあるが、英語の「immolation」は「生贄」で「Self-immolation」が「焼身自殺」だそうである。

この「自殺=善」とする発想は、武将の切腹や神風特攻隊など、日本の歴史上にも散見されるものだ。年間3万人を超える自殺者の多さも、そこに起因するのかもしれない。3万人を超えるようになったのはここ10年ほどだが、それは人口の兼ね合いもあるからで、実は日本における自殺者の割合は、昭和22年から大幅には変化していない。

自殺が美化される風潮がある限り、自殺者数は減らないのではないかとも思えてくる。うつ病や病苦による場合は仕方ないにしても、賛美するからには、いつか自分もやらないといけなくなるように思えて恐い。だから僕は次のように考える。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉は「本当に死ななきゃいけない時のために、何としてでも生き抜くべし」ということではないか。そしてその「本当に死ななきゃいけない時」がいつなのかは誰にも分からないから、結局は「死ぬことと見つけたり」がゆえに「何としてでも生き抜くべし」ということになる。

うちの親が良く言っていた「命根性が汚い」という言葉は、生きることへの執着心を非難するもの。自分の子に「生きようとするな」なんてと思っていたが、「惨めに命乞いするくらいなら、カッコよく死になさい」ということらしい。そして「カッコよく死ぬ」ためにはどうすればいいか考えてみると、やはり「死ぬことと見つけたり」同様に、もっとカッコよく死ねる可能性があるかもしれないわけだから、その時のためにも生きなくてはならない。

ブウアジジら抗議自殺者にとっては、まさに「その時」が来たということだったのかもしれない。だからその死を無駄にしなかった大衆の思いは称賛されるべきであろう。けれどもそれと同時に、もう二度と悲劇を繰り返さないでほしいと願わずにはいられない。これだけ自殺者がいるのに何ひとつ変わり映えのしない日本にいるからこそ、そう思う。(工藤伸一)

家の延長としての国家

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2月4日(金)25:25〜28:25にテレビ朝日系列で放送された『朝まで生テレビ』のテーマは「激論! 日本は本当にダメな国なのか!?」というもの。その中で「家族を守ることと国家を守ることは同じか?」という議論があった。すぐに話が他に移ってしまったけれど、僕は興味深い話だと思った。

堀江貴文さんは「国境などいらない」と言っていた。けれどもそれは侵略戦争大義名分にもなりうる考え方で。日本の天下統一を果たした豊臣秀吉朝鮮出兵したのも、第二次世界大戦における大東亜共栄圏構想も、その「国境などいらない」という発想によってなされた。だから国境をなくしたところで、国家の原型たる家制度が残る限り、利権のブラックボックスは消えない。

星新一の『マイ国家』というショートショートがある。マイホームが独立国家と化して神話まであるという話だが、実際の国家も似たようなものだろう。1家族を「1世帯」とも言うが、それになぞらえれば、日本は1億2千万の家族を有する1世帯ということになる。

東浩紀さんが言うように「国家は経済共同体」と考えたならば、国家の原型たる「家族」も「経済共同体」として運営される必要がある。「家族経営」という言葉は家族で事業を営む経営スタイルを指すが、一方で主婦や主夫も経済活動をしているとみなされることらすれば、あらゆる家族を「家族経営」と言ってもいいだろう。そしてその経済共同体の最小単位としての家族がある限り、領土問題など覇権争いは絶えることがない。

最小単位は個人と考えることもできるが、それは共同体ではないし、外貨(これは外国のお金という意味ではなく、家の外という意味)を稼ぐ世帯主だけが家計を支えているわけではないから、やはり家族と考えるべきだろう。社会福祉は、本来なら家族や親族が面倒を見るべきところを、自治体が肩代わりする制度である。これも家の延長としての国家の側面ということになる。

それにしても政治家はなぜ政治家と呼ばれるのか。政治屋だと一段格下げに見える。小説家じゃなくて小説屋なんてのもそうだ。屋号と家号の問題に関しては、また改めて書きたいと思うが、経済共同体の商売人と考えたら、いっそ国家じゃなくて国屋でもいいのではないか。

堀江さんや東さんが「Twitterによる連携」などと話していたのは「もし国家が戦争を起こそうとしても国民が阻止する」ということだろう。政府の意思のみで発生する「世界大戦」から、大衆によるゲリラ戦術に国体が脅かされる「世界内戦」への変質。

その経緯と展望について書かれたのが、限界小説研究会のメンバーによる評論書『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』(南雲堂)である。メンバー以外の識者も交えた刊行記念トークショーは過去2回行われ、リアルライブにて告知させてもらっていた。近々3回目の予定もあるそうなので、その告知も兼ねてまた考察してみたい。(工藤伸一)

酒井法子とジョン・ライドン

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酒井法子(39)の自叙伝『贖罪(しょくざい)』は、5万部程度と売上が良くないそうである。

そもそも活字本が売れないと言われている中で万単位なら問題なさそうに思えるが、ヒット曲『碧いうさぎ』がミリオン寸前までいったことを考えると、やはり少ない気はしてくる。ちなみにウィキペディアの「酒井法子」の項目ではミリオンセラーとなっているが、曲自体の項目では99.7万枚となっている。出荷枚数は100万枚を超えたものの、事件後の発売中止措置によって、実売数は超えられなかったということだろうか。

2009年11月25日に覚せい剤取締法違反(所持)により、懲役1年6か月、執行猶予3年の判決が確定。その約1年後に発売された『贖罪』は、あまり反省が感じられない内容と批判もされたが、アイドル絶頂期の話やプライベート写真も多く、ファンにとっては嬉しい本。2月3日には電子書籍版も発売されたそうなので、後ほどまた好意的なレビューでも書いてみようかと考えている。

実は最も好きなアイドルが誰か聞かれたら、酒井法子ということになるけれど、それをどう説明すべきか迷っちゃうような状況に来ていて。けれどものりピーが、変な男と結婚したりシャブ中になったりしても、アイドルはあくまでもアイドルというような思いはあって。ともすれば、むしろ堕ちていってくれた方が、より神聖が増すようにさえ思えるくらいで。

何というか、世の災厄を一身に背負うがゆえに、崇拝に値する偶像というか。つまり簡単に騙されちゃうくらい、ピュアなんだ。本当の清純派は、汚れていくのが、当たり前で。なぜなら、汚れないでいられるほど、器用じゃないから。その不器用さこそが、アイドルの資質なのである。

だから汚れてしまう前に人気絶頂の最中で、事務所ビル屋上から投身自殺した岡田有希子(享年18)なんて、まさにアイドルの鏡。パンクロックバンド「セックス・ピストルズ」の解散直後に、恋人ナンシーの後を追うようにして変死したシド・ヴィシャス(享年21)なんてのもそうだ。

バラエティ番組に出てくる変なオッサンとして惨めに醜態を晒すことで、自らを偶像破壊して生き残るジョン・ライドン(55)の方が、僕は好きだけど。岡田有希子はシドで、酒井法子はジョンだろうか。どちらも清く正しく美しい、パンクやアイドルの模範だ。

そしてパンクとアイドルは技術の放棄という点においても似ている。むしろパンク的な上手さや、アイドル的な上手さというものがあって。ところがそれを維持できない。それも含めてパンクであり、アイドルというかさ。つまり人生そのものなんだ、パンクもアイドルも。
 
それを事務所やファンやマスコミが利用して、飯のタネやらオカズやら玩具にしているわけで、責任を負うべきなのは、事務所やファンやマスコミの方だ。アイドルの運や才能や魅力をエサにして利益を稼いできた贖罪の意味もあって、今度は逆にアイドルを叩くという側面もあるんだろうけれど、しかしそれじゃ事務所やファンやマスコミが追い詰めた、アイドル当人への贖罪を果たしているとは言えないんじゃないだろうか。

芸能界に蔓延する薬物汚染も、本当の加害者はブローカーであって芸能人は被害者だったりもする。だから多少なりとも擁護せざるを得ないはずなんだ。そしてそれは、薬物と手を切れるような方向性のものであることが、望ましい。とにかく入手ルートが殲滅されない限り、不幸の連鎖は続いてしまうことだろう。

のりピーは2月14日に40歳の誕生日を迎える。「バレンタインデー生まれ」なところも正統派アイドルという感じだけれど、だからといってホワイトデーに白い変なものを送っちゃ、ダメ。絶対!(工藤伸一)

35の夜(2chより)

原曲は尾崎豊『15の夜』だな。
考えた人すごい。後で元スレを探そう。
何となく劇団ひとりのコントとセンスが似てる気がする。

便所の落書きと エロサイトばかり見てる俺
超高級ソープの紹介記事 届かない夢を見てる

やりばのない気持ちの扉やぶりたい
電車の中 尻を触って見つかれば逃げ場も無い

しゃがんでひとり 背を向けながら
心のひとつもわかりあえないカップルたちをにらむ

仕事仲間たちは俺抜きで旅行の計画を立てる
とにかくもう 会社や盛り場にはでかけたくない

自分の存在が何なのかさえ
解らず引きこもる 35の夜

盗んだパンツでオナりだす
持ち主も解らぬまま 暗い夜の帳の中で

誰かに慰められたいと 逃げ込んだこのスレで
仲間を見つけた気がした 35の夜

ショートショート『兄さんの日』

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「節分だか接吻だかセックスだか、豆撒きだか恵方巻きだか後藤真希だかしらねぇが、兄さんをのけものにしておいて、勝手に行事をすすめるのは断じて許さん!」
 
 兄さんが狂った。
 というより、もともと狂っていたのかもしれない。

 狂という字は「王」に「ケモノ偏」で。
 この「王」は本来「まさかり」を意味するものだったらしく。
 マサカリかついでクマにまたがった金太郎状態。

 兄さんの名前は金太郎もとい、マサカリ・クサヲなのである。
 それはさておき。

「いいか皆、よく聞きやがれ。平成23年2月3日を、兄さんの日に制定する。提案者は兄さん。賛同者も兄さん。父の日や母の日があるのだから、あってもいいじゃないか」

 すると弟くんや妹ちゃんが「兄さんだけズルい!」と言い出した。
 姉さんも「兄さんらしくないわね」と呆れている。

「兄さんは天下のブラック大学を出てんだ。何をしても許される身分なんだよ」
「だったらもっと知的な説明くらいしてみせたらどうなの、クサヲ?」
 不遜なことをのたまう兄さんに、母さんがつっかかる。

「よかろう。今日はちょうど旧正月なんだ。新正月の兄さんみたいなものだろ?だから兄さんの日。これでどうだ?」
「まあ、いいでしょう。それで我々に何をしてほしいわけ?」

「とりあえず、今日だけは兄さんを王子と呼べ」
「王子、次は何がお望みですか?」
「腹が減った」
恵方巻きと豆撒き用の豆しかございませんが」
「苦しゅうない。よこせ」

「ちょい待てや、ゴルァ!」
 鬼の形相で父さん登場。
「クサヲのくせに生意気だ! 貴様のような愚息に喰わすもんはない!」

「こんな子に着せる服もないわ。テメーラ、剥いちまいな!」
 まさかの母さんによる援護射撃。 
「時は来た! それだけだ!」

「ギニヤー!」
 奇声を上げてワラワラと、姉さんと弟くんと妹ちゃんが、兄さんにまとわりつく。

「ゲゲゲ! おいこら、やめろよ、こそばゆいじゃないか、フヒヒヒヒ!」
 くすぐり攻撃に耐えかね無抵抗と化した兄さんは、身ぐるみ剥がされ生まれたままの姿に。

「鬼は外!」
 父さんと母さんが、兄さんを標的にして、豆を装填したマシンガンをぶっぱなす。
「アウチ! 素肌にこれは、マジ勘弁」

 兄さんが逃げ込んだ自分の部屋からも、容赦ない豆つぶて。
 姉さんと弟くんと妹ちゃんが、先回りしていたのだ。

「おにーはそと!」
「お兄は外!」
「そういうことか! くっそ、こんな家、出てってやる!」

 そのまま外へ出たはいいものの、何も着てないものだから、寒くてたまらない。
 かといって戻るわけにも行かず、考えた末に交番へ。

「なるほど、自宅に帰れないというわけか。で、どうして全裸なの?」
「服はウチにあるので」


(工藤伸一)

身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(3)

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僕は猫アレルギー体質だが、かなりの年月を猫と暮らしてきた。猫アレルギーの主な症状は、皮膚が腫れたり痒くなったり、くしゃみや鼻水が出たり、あるいは喘息を持っている場合に発作を誘発したりもして、危険だ。今は喘息の薬を飲んでいるから、症状が出ることはそうそうない。しかし薬が切れてしまうと、猫に接することはできないだろう。

幼稚園児の頃に、知人宅で飼われていた猫と遊んでいたら、目の周りがぶくぶく腫れてきて、驚いた親が病院に連れていき、猫アレルギーであることが発覚した。けれども何年かして何故か症状が出なかったので、治ったのだろうということで、知人宅から預かった猫を飼うようになったのである。

しかし大人になってから喘息を発症した際に受けた検査結果で、治ってなどいないことを知った。ハウスダストや花粉などもアレルゲンになっているため、猫に近づかなければ大丈夫というわけではない。そもそも喘息発作が初めて起きたのは、猫のいない場所だった。他の人の衣服に猫の毛が付着してることもあるから、根本的には防ぎようがない側面もある。

2005年に花粉症の発症を苦にした石原都知事が、スギの伐採を命じたことがあった。花粉症になる人は増加傾向にあり、動物アレルギーも同様に増えていると思われる。現代人がアレルギーになりやすいのは、環境が清潔すぎるからとの説もある。確かに昔に比べて何かといえば除菌をするので、抵抗力が奪われてしまったようには感じられる。とはいえ、いったん失くしてしまった力を取り戻すのは、簡単なことではない。

前回の終わりに「身勝手なのはペットを捨てる飼い主だけではなく、何もしてやれない人類そのものであり、皆で罪を背負っていくべきだ」と書いた。これは僕自身がアレルギーを抱えながらも猫と暮らさざるを得ない宿命に、業を感じ取ったせいでもある。だから別に誰もが動物を飼わねばならないなんてことはないけれど、飼い主を敵視するようなことはやめてほしいとの思いがある。

前回の文章を読んだ方から「ペットを飼う」という表現が好きになれないという意見があったけれど、言われてみればその通りだと思う。人間のエゴのために動物を飼うのではなく、僕らは動物の世話係に過ぎない。主体は人間ではなく動物の側なのだ。動物は人間と共に暮らしてくれている。だから僕らは彼らの世話を怠ってはならない。

また「人類の罪」という言葉に「お前は新世界の神にでもなったつもりか」と拒否反応を示す方もいた。もちろん僕は神ではない。だから動物の命をみだりに奪う権利もない。アレルギーや住環境などの都合で同居できないケースも多いけれど、そもそも僕らは同じ地球で一緒に暮らしてきた仲間なんだ。宇宙の片隅で肩寄せ合いながら、どうにか仲良くやっていきたいものである。(工藤伸一

身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(1)
http://npn.co.jp/article/detail/07021667/
身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(2)
http://npn.co.jp/article/detail/24793928/

身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(2)

ニュースサイト「リアルライブ」に掲載されています。 http://bit.ly/hcXUGa

僕が子供の頃に、人を噛んで殺処分された犬のゴローや、事故死するなどしていなくなった猫たち。こうして思い出してみると、可哀想なことをしたと思う。決して虐待していたわけではない。けれどもペットを飼っていることそれ自体が、まるで虐待であるかのようなことまでいう人もいる。しかし実際に何もしてやれないからには、飼っているかどうかに関わらず、誰もが身勝手な人間の一員に過ぎないだろう。

殺処分に当たる保健所の職員は、何もしてくれない人たちの尻ぬぐいをしているのであって、飼い主だけを責めたところで状況は変わらない。ましてや「愛犬チロの敵打ち」と称し、元厚生事務次官らを殺害した小泉毅被告のように、行政を憎むのはお門違いだ。

全国で殺処分されるイヌやネコは、1年間で30万匹前後にも及ぶそうである。うち3割が犬で、7割が猫。ここ10年で半減してはいるが、減っているのは犬ばかりで、猫は横ばい。8割が生まれて間もない子猫だそうである。事故や病気や飢えで死んでいく野良猫が不憫で、去勢や避妊手術をボランティアで行っている人もいる。自分で飼えればいいのだが、それにも限界がある。

手術を受けさせるのも人間のエゴに見えるかもしれないが、少なくとも既に生まれている命が天寿を全うできるだけでもマシだろう。殺処分数が4年連続で全国ワースト1位だった福岡県の動物愛護センターでは、昨年8月から去勢や不妊手術を無償で行うようにしたそうである。

もし国家が殺処分せずに全ての犬猫を飼うとしたら、どうなるだろう。100匹の猫を飼う社長令嬢なる人がテレビ出演し「月100万円かかる」と言っていたことがある。1匹当たり1万円ということになるが、さらに3割程度にまで抑えたとしても、10年で300万匹なら、毎年1,200億円。国家予算が90兆円として750分の1。多いと見るか少ないと見るか、難しいところだ。

身勝手な飼い主は身勝手ゆえに、どんなに飼うなと言われても飼っては捨てるだろうし、何らかの理由で飼い主の下を離れ、そのまま処分されることもある。動物は自由に生きられるのが理想かもしれない。しかし野性の熊でさえ里に降りてくるこのご時世。人間と共生しながら代を重ねてきた彼らが、野性環境で問題なく生きていけるかは疑問に思えてならない。

だからこそ僕らには責任がある。もはや誰が悪いという話ではなく、これは人類全体の罪なのだ。自分だけは悪くないなんて、言い逃れることはできない。誰もが等しく罪を背負って生きていくべきなのである。できれば罪なき彼らの世話に一生を捧げながら!(工藤伸一

身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(1)

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今西乃子・著/浜田一男・写真『犬たちをおくる日』(金の星社/2009年刊/税込1,365円)の紹介記事をネットで読んだ。飼い主が連れてきたり外で捕獲されるなどして貰い手もないまま殺処分されるイヌやネコの姿と、動物愛護センター職員の仕事ぶりや胸の内を伝えるノンフィクション本だそうである。

その紹介記事中にも出てくる「身勝手な飼い主」という言い回しは、ペット問題を語る文章で必ずと言っていいほど良く見かけるもの。動物の命を軽視する風潮を非難する言葉だ。僕自身も憤りを感じる一人だが、それでもこのフレーズを目にするたび、ペットにまつわる悲しい記憶がよみがえり、激しく苦悶してしまうのである。

幼い頃から実家で一緒に育った飼い犬のゴローとは、幼なじみ同様に暮らしてきた。けれども犬の成長は早く、僕が中学に入る頃には、人間でいえば60歳。番犬として家の前の犬小屋に繋がれていたが、ある冬の日に近所の子供たちから、雪玉を投げつけるなどしてイジメられた。僕より学年が下の悪ガキどもの仕業である。叱りつけたらすぐに逃げて行ったものの、その時にはもう手遅れで。

ゴローはすっかり人間不信に陥ってしまい、家族以外の人間が近づくと猛烈に吠えたてるようになった。それ以降「猛犬注意」と触れこんでは、慣れない人が近づかぬよう注意してきた。ところがある日、妹がエサをやろうとしている時に知り合いが訪ねてきて、妹が「危ないからダメだ」と止めても「大丈夫」といって聞かずに近付き、腕を噛まれてしまった。

完治までに日数を要する大怪我となり、父は責任をとってゴローを殺処分すると言いだした。「知らない人を噛んだのは、番犬としての役目を果たしただけなんだ。どうして殺さないといけないの?」泣いて懇願しても「いったん人の血の味を覚えたイヌは、癖になってまた噛みつく」として譲らない。数日後、学校から帰ると犬小屋にゴローの姿はなかった。それから何日もの間、愛犬のことを思って泣いた。

当時、我が家ではネコも飼っていた。ゴローもそうだったがペットショップで購入したのではなく、増えすぎて飼えなくなった知人から貰い受けたのだ。しかし僕ら家族の住む社宅が老朽化のため取り壊されるとこととなり、引越し先はペットを飼うことが禁じられていた。そこでさらに貰い手を探したものの、見つからなかった。

3匹のうち1匹だけ貰ってくれるはずの友人の親が「やはりダメだ」というので自宅に連れ帰ったところ、身の危険を感じてパニックになったのか、どこかへ消えてしまった。翌朝、車に轢かれているのを僕が見つけ、父に手伝ってもらい埋葬した。数日後には、もう1匹も後を追うようにして事故死。最後の1匹は何とか親戚に預けられたが、先住猫と折り合いが悪く家出したまま帰らないそうである。

これらの体験によって植え付けられた悔しさ悲しさ、そして何よりも拭いがたい罪の意識から、もし今後またペットを飼うようなことがあれば、絶対に一生面倒を見ようと子供心に決意した。しかし何もできなかった無力な僕は、やはり世間から見れば「身勝手な飼い主」の一員なのだろう。

※身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(2)につづく(工藤伸一

文学賞の「組織票」騒動(2)

ニュースサイト「リアルライブ」に掲載されています。 http://bit.ly/feFTJc
※「嶽本」さんの名前が途中から「獄本」になっているのは誤記です。訂正してお詫び申し上げます。

昨年刊行された小説単行本に投票する「Twitter文学賞」は、書評家・豊崎由美さんの呼びかけにより行われており、締切は1月31日で、発表は2月5 日。嶽本野ばら(たけもと・のばら)さんの新刊『金脈』(小学館/2月23日発売予定)は規定外だが、嶽本さんがファンに組織票を投じさせたことにより、騒動に発展した。

嶽本さんは乙女やロリィタにホラーやパンクといった、廃退かつ耽美的な作風で知られる。2000年のデビュー小説集『ミシン』(小学館)の収録作『世界の終わりという名の雑貨店』や『下妻物語 ヤンキーちゃんとロリータちゃん』が映画化するなどヒット作も多い。2003年と2004年には三島賞候補になったが、もともと新人賞経由でデビューしていないこともあって、一度も文学賞を受賞していない。だから賞がほしくてたまらないらしいのだ。

それにしてもこの騒動は、結果的に宣伝になってやしないだろうか? むろん逆効果になる可能性も大いに考えられるが、発売前から叩かれていた水嶋ヒロさんのデビュー小説『KAGEROU』だって、結局はベストセラーになった。読者が作家に求めるものは、必ずしも文章力や構成力ばかりではなく、作者の狂気性を喜ぶ節もある。

嶽本さんは2007年に大麻所持の現行犯で逮捕され、2008年の復帰作『タイマ』では逮捕経験を交えた私小説風の内容が話題を呼んだが、そこに反省の色が見えないとして批判的に受け取る読者も多かった。けれどもファンに支えられて順調に著書を増やし、昨年11月には執行猶予期間を満了。

逮捕歴といえば、1月17日に発表された第136回芥川賞受賞者の西村賢太さんも、親子二代に渡る逮捕歴が話題になった。「作者の人物像と作品の良し悪しは別だ」という見方もあるにせよ、彼が私小説作家である以上、無関係とは言い切れない。

職業作家ではないが、1月26日に発売された市橋達也被告の手記『逮捕されるまで〜空白の2年7カ月の記録』(幻冬舎)も予約ランキングなどを見る限り、かなり売れているようだ。殺人者の本が売れることに比べれば、嶽本さんのわがままなど大したことではないようにも思える。

無頼派と呼ばれる人間性に問題のある作家は他にも沢山いたけれど、特にそれが顕著なのは太宰治だろう。太宰は心中未遂で結果的に相手を死なせているが、不起訴になった。それは罪がなかったからではなく、親が裏で手を回してくれたんだと、小説の形ではあるが告白している。最終的に太宰は心中で世を去っているから、今さらそれを断罪しようとは思わない。

それどころか今時の太宰ファンの多くは、おそらく殆ど彼の作品なんて読んでやしないのだ。映画やドラマ化された『人間失格』やら教科書の『走れメロス』くらいは知っているだろう。しかし太宰は多彩な作家であり、他にも多くの名作を残している。彼の死後に『お伽草紙』を読み、その余りの面白さに認識不足を詫びた、同時代の評論家もいたそうである。

豊崎さんや投票者からすれば、迷惑千万だろう。けれども支持率と人となりはセットに思える節もあり、今後も人気は衰えることがないようにも思う。とはいえ物書きであるからには、姑息な手段ではなく作品で勝負してもらいたいものである。果たして今度の新作『金脈』は、汚名を返上させるほど客を呼び込める「金脈」に値する出来なのだろうか。全てはそこにかかっている。(工藤伸一

Togetter「Twitter文学賞で組織票」
http://togetter.com/li/93251
豊崎由美ブログ「書評王の島」
http://d.hatena.ne.jp/bookreviewking/20110105/1294157404
嶽本野ばら公式サイト
http://www.novala.quilala.jp/