MAX敬語をご査収くださいませ
ニュースサイト「リアルライブ」に掲載されています。 http://bit.ly/gird7l
フジテレビ系列で放送中のバラエティ番組『ペケポン』(毎週金曜日19:00〜)の「MAX敬語」なるクイズコーナーで、芸能人はもとより直木賞作家など文化人の方々までもが、最上級の敬語である「MAX敬語」を答えられず苦心している様を見ますと、ましてや私のごときが敬語を使いこなせているなどと考えるのは、おこがましいにもほどがあるようにすら感じてしまいます。
今回の文章では可能な限り丁寧に綴らせていただいておりますが、おそらく私自身も気付いていない誤用もあるかと思われます。これが今の精一杯のものでございますので、お目こぼしいただけると幸いに存じます。
敬語は大切なものです。特に最上級の尊敬語は使える機会が少ないですから、なるたけ使うようにしないことには言葉の存在それ自体を忘れてしまいがちです。せっかく長い伝統を誇る日本語を継承してきたのですから、それは非常にもったいないことでございます。
私も普段から敬語でばかり書いているわけではございませんが、会話においては敬語を使うことが多いのです。かしこまりすぎても何ですから、敬語より丁寧語に近いかもしれません。それにしても敬語って難しいですよね。使い慣れていないと謙譲語を用いてへりくだったつもりが自尊語になったり、敬語が過剰な二重敬語になってしまったりと、逆に先方に失礼に当たることさえございます。
それでも職場の上司やお客様に対して敬語を使ってはきましたもので、全くできないということはないかと思われます。過去に「MAX敬語」コーナーで出題された中で印象的でしたのは、「ご査収(さしゅう)くださいませ」ですとか、「ご尊顔(そんがん)」になりますでしょうか。
「ご査収」はメールや書類などを目上の方へお渡しする場合に使うもので、ただ単に読んでほしいのではなく、内容を確認していただき、もし間違えがあれば叱って下さい、というような意味合いが込められているため、最上級の尊敬語のひとつとされております。
また「顔」を示すMAX敬語「ご尊顔」は、日常生活において滅多に使う機会こそありませんが、たとえば「仏様のご尊顔」というように、人より上の存在に対して使われているのを拝聴した記憶がございます。
先ほども申し上げました通り、私は関係性が不明瞭であれば対等の相手に使うタメ語ではなく、敬語を使うことにしております。それゆえ決して目上というわけでもない相手に対しても、丁寧すぎる言葉で接するケースが生じて参ります。できれば誰とでもタメ語で話したいと考えるような方々からすれば、心理的な壁をお感じになる場合もあるでしょう。
かといって言葉遣いを変えようにも、なかなかタイミングが難しい側面もございます。もし私と面識のある方で、タメ語で話してほしいという方がいらっしゃいましたら、どうぞ仰ってくださいませ。すぐにタメ語にするからさ、こんな風にな。(工藤伸一)
サンタクロースに関する恐い話
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サンタクロースはクリスマスイブにプレゼントをくれることになっているが、それはどんな子供にでもというわけではなく「良い子」という条件付き。だからサンタさんは必ずしも良い人ではない。サンタさんが嫌う悪い子からしてみれば、自分にはプレゼントをくれない差別的なクソジジイでしかない。
けれどもサンタさんをクソジジイ呼ばわりしちゃうと悪い子に思われてしまうから、決してそんなことを言ってはいけない。しかも国によってはプレゼントをあげるどころか、悪い子を懲らしめるナマハゲみたいな役割も兼ねているというから、気をつけなくては。
それにしても深夜に煙突から他人の家に侵入するサンタクロースは、泥棒目当ての不審者に思えなくもない。帽子を被って髭を生やしているから人相もよく分からないし、袋の中にはプレゼントじゃなくて盗品が入っている可能性だってある。なおかつ赤い服を着ているのは、血まみれでもばれないようにしているんだったりして。
なんて考える人は沢山いるようで、サンタさんを殺人鬼とする設定のホラー映画も多い。たとえば『悪魔のサンタクロース 惨殺の斧』(1984年/アメリカ/原題:Silent Night, Deadly Night)や『ウォンテッド・Mr.クリスマス』(1990年/フランス)に『スクリーム』(1996年/アメリカ)などなど。
デンマークに本部がある「グリーンランド国際サンタクロース協会」は、グリーンランドに住む長老サンタの補佐を務める公認サンタクロースの認定機関。公認サンタは世界に180人ほどいるそうで、日本ではマンボミュージシャンのパラダイス山元さんが認定されていたりする。
サンタさんの相棒といえば真っ赤なお鼻のトナカイさんだが、実は長老サンタのいるグリーンランドでは、そのトナカイを食べてしまうのである。「トナカイを食べるなんて!」と思ってしまうが、日本でもサムライの乗り物だったりしてきた馬を馬刺しにして食べたりするから、よその国の文化にケチを付けるわけにもいかない。とはいえやはりトナカイを頬張るサンタさんの姿は、あまり想像したくないものである。
子供の夢を奪うようなことを言っておきながらも、僕は本物のサンタさんの実在を信じている。しかしそれが人間ではなく怪人や妖怪の類だとすれば、必ずしも人間にとって都合の良い存在とは限らない。ロマンティックに思えるホワイトクリスマスも、豪雪地帯の住民にとっては厳しい自然の脅威であるように、物事には裏表があるものだ。
でもだからこそ刺激に満ち、僕らを飽きさせることがないこの世界は、いったい誰からのプレゼントなのだろう? それが創造主によるものか科学的必然なのかはさておき、聖なる夜に世界中の人々が互いに感謝し合えるのは素晴らしいことだ。メリー・クリスマス!(工藤伸一)
佐々木友輔 映像個展『新景カサネガフチ』
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12月18日(土)と19日(日)、イメージフォーラム・シネマテーク(東京都渋谷区渋谷2-10-2)にて、佐々木友輔監督の新作映画『新景カサネガフチ』上映会が行われる。朗読:菊地裕貴、出演:石塚つばさ、ロゴデザイン:藤本涼、音楽、田中文久、制作:佐々木友輔。佐々木監督の映画2本が上映される他、社会学者2名を交えたトークイベントも組み込まれており、18日のゲストは若林幹夫さんで、19日は宮台真司さん。
「2011年、関東鉄道常総線に新しい駅ができて、その土地の名前も「ゆめみ野」に変わった。ゆめみ野の誕生と時を同じくして結婚し、街のめまぐるしい変化に寄り添って暮らしてきた一組の夫婦は、ある出来事をきっかけにして、街の歴史と夫婦の時間を、交差させ、かさね合わせるようにしながら追憶していく。そこに浮かび上がってくるのは、いつか夢に見た景色−−累(かさね)伝説発祥の地、累ヶ淵。『夢ばかり、眠りはない』に続く、「風景」映画最新作。」(フライヤーより)
カサネガフチ=累ヶ淵は、茨城県常総市羽生町にある法蔵寺裏手の鬼怒川沿岸のことで、落語や歌舞伎における怪談の舞台として有名な場所。実話に基づいているそうで、法蔵寺にある累(るい)一族の墓は、常総市の指定文化財にもなっている。1617年(慶長17年)に羽生町の百姓・与右衛門(よえもん)は、後妻お杉の連れ娘・助(すけ)を川に捨てて殺す。助は人相が悪く足が不自由だった。その翌年に産まれた娘・累(るい)の風貌は、助にそっくりだった。累は「かさね」とも読めることから「助がかさねて生まれてきた」と噂される。両親に先立たれた累は、婿に迎えた谷五郎に裏切られ殺される。谷五郎の後妻は次々に他界。6人目の後妻きよとの間に生まれた娘・菊に累と助の霊が憑き、弘経寺の祐天上人が成仏させたという。
作品は発信者と受信者のイメージがかさなりあうことで完成する。江戸時代と現代がリンクした光景は、僕らの現実とかさなることで確かな重力を得るだろう。同時上映される『彁 ghosts ver.4』は未公開の大作映画とのこと。どう読むのか分からなかったため調べてみたところ「彁」は「タカ」と読むらしく、使われることは殆どない「幽霊文字」だそうである。
「国道6号沿いの廃墟に残されていたminiDVカセットテープ、そこに映っていた青い服の女。物語の主人公は、そこに残された映像を頼りに、彼女の見た景色を辿る旅に出る−−。この世に溢れる無数の映像を出会わせ、結び合わせ、一枚のディスクに刻み込むことで、他の誰でもない新しいひとつの人格=幽霊を生み出すための映画実験。『新景カサネガフチ』、『夢ばかり、眠りはない』の原型であり、佐々木友輔の見たゼロ年代映像環境の総決算。」(フライヤーより)
秋葉原事件を題材にした前作『夢ばかり、眠りはない』もそうだったが『新景カサネガフチ』や『彁 ghosts ver.4』にも一貫して「夢」あるいは「霊」がテーマに据えられている。それは必ずしも人霊とは限らず、自然に宿りし精霊をも含む「神霊=神の御魂」であり、可視/不可視に囚われず森羅万象の実体を捉えようとすれば、決して無視できない物影。その「影を撮る」行為こそが映画の「撮影」であり、それが現実の影なのか夢の影なのか観客には区別が付かない。CG(コンピュータ・グラフィック)や特撮ということではなく、僕らが住むこの現実を含む、全ての「風景」においても。(工藤伸一)
佐々木友輔映像個展『新景カサネガフチ』公式サイト
http://qspds996.com/kasanegafuchi/
・開催日:2010年12月18日(土)、19日(日)
・料金:当日700円/イメージフォーラム会員500円
・会場:イメージフォーラム・シネマテーク
(東京都渋谷区渋谷2-10-2:渋谷駅から徒歩8分、表参道から徒歩10分)
・企画:イメージフォーラム(http://www.imageforum.co.jp)
・お問い合わせ:qspds996@gmail.com(佐々木)
・タイムテーブル
14:00 彁 ghosts ver.4 上映
17:00 トークイベント(18日ゲスト:若林幹夫、19日ゲスト:宮台真司)
18:00 新景カサネガフチ 上映
「世界内戦」を生き抜くために
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限界小説研究会の新著『サブカルチャー戦争−−「セカイ系」から「世界内戦」へ』刊行記念トークショーが、12月18日(土)に青山ブックセンター本店(東京都渋谷区)で行われる。出演者は笠井潔さん、白井聡さん、鈴木英生さんで、司会は藤田直哉さん。
共にミステリなどを手掛ける小説家でもある笠井潔さんと小森健太郎さんを中心に、若手評論家が集い結成された「限界小説研究会」は、2008年に西尾維新や谷川流、竜騎士07、桜庭一樹らの作品を扱う評論集『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂刊/笠井潔/限界小説研究会編:小森健太朗/飯田一史 /蔓葉信博/福嶋亮大/前島賢/渡邉大輔)を上梓。以降、SFやミステリやアニメやゲームや映画など様々なエンターテインメントのフィクションを論じてきた。
昨年出版された『社会は存在しない』(南雲堂刊/限界小説研究会編:笠井潔/小森健太朗/飯田一史/岡和田晃/小林宏彰/佐藤心 /蔓葉信博/長谷川壌/藤田直哉)では、ゼロ年代(2000-2009年)のエンタメをリードしてきたと目される「セカイ系」を論じた。「セカイ系」とは『新世紀エヴァンゲリオン』や『最終兵器彼女』や『涼宮ハルヒ』シリーズなど「君と僕」の閉じた関係が「社会」をすっとばして「世界の滅亡」やら「この世の果て」と直接リンクしてしまう作品群を示す。タイトルはマーガレット・サッチャー元英国首相の言葉から来ている。「セカイ系」を思わせるようなこの発言が、現実の政治家から出てきたものであったように、フィクションとノンフィクションを横断する問題系に、執筆者それぞれの観点から着目した。
そして今年12月2日に発売されたばかりの『サブカルチャー戦争』(南雲堂刊/限界小説研究会編:笠井潔/小森健太朗/飯田一史/海老原豊/岡和田晃/蔓葉信博/藤田直哉/渡邉大輔/白井聡)では、その「セカイ系」の先に続く「世界内戦」をテーマに据え、9.11以降に変化した「戦争」の意味を問い質す。この「戦争」とは世界大戦など日常を覆う「大きな戦争」のみならず、経済戦争など日常に潜む「小さな戦争」も含まれる。戦争が遍在する「例外状態」がデフォルトの現実をいかに生き抜くべきかを、やはりフィクションとノンフィクションをひもづけながら解き明かしていく。
扱われる題材は総じて新しい作品だが、それを意味づける言葉は古びた思想だったりもする。両者をぶつけることで思想はリニューアルされ、作品はルーツを獲得する。新しいものばかり持て囃して、古き良き伝統を腐らしてしまっては元も子もない。だからこそ古いセカイを発酵させるための新しい菌が必要だ。兵器ではなく利器としての毒が。ラディカルな言説で世界をアジる限界研の仕事も、暴力社会を毒抜きするワクチンのひとつに他ならない。(工藤伸一)
以下、青山ブックセンター本店イベント情報ページより転載
http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_201010/1218.html
『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』刊行記念トークショー
「世界内戦とロスト・ジェネレーション」
・出演:笠井潔×白井聡×鈴木英生/司会:藤田直哉
・日時:2010年12月18日(土)18:30〜20:00(開場18:00〜)
・会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
・定員:100名様
・入場料:500円
・参加方法:2010年11月26日(金)10:00より
[1] ABCオンラインストアにて予約受付いたします。
[2] 本店店頭にてチケット引換券を販売。
※入場チケットは、イベント当日受付にてお渡しします。
※当日の入場は、先着順・自由席となります。
※電話予約は行っておりません。
・お問い合わせ電話:青山ブックセンター本店 03-5485-5511/受付時間:10:00〜22:00
※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意ください。
<イベント内容>
9・11と、リーマンショックによって、グローバリズムの破綻が顕著になってきている。様々な国の内部で分裂が生じ、日本国内でも「格差」や「ロスジェネ」が問題となっている。そのような「世界内戦」状況下において、『東のエデン論』を書いた笠井潔と、「物質の蜂起」を説いた気鋭のレーニン研究者・白井聡、『新左翼とロスジェネ』で学生叛乱の精神の現代的な形を模索した『蟹工船』ブームの立役者鈴木英生。三人にくわえて、司会として実際にロスジェネ的生活を送っている藤田直哉が参加し、「世界内戦」の現実において総ロスジェネ化とも言うべき事態にどう対処すべきか、「新左翼」と「ロスジェネ」が激論を交わす。限界小説研究会論集『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』刊行記念トークショー。
<プロフィール>
笠井潔:1948年東京生まれ。1979年に『バイバイ、エンジェル』で第5回角川小説賞受賞。主な小説に『ヴァンパイヤー戦争』、『哲学者の密室』、『群衆の悪魔』、『青銅の悲劇』、など。評論は『テロルの現象学』(筑摩書房)、『国家民営化論』(光文社)、『例外社会』(朝日新聞出版)など。
白井聡:1977年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。多摩美術大学・高崎経済大学・早稲田大学非常勤講師。著書に、『未完のレーニン』(講談社)、『「物質」の蜂起をめざして−−レーニン、〈力〉の思想』(作品社)。
鈴木英生:1975年、仙台市生まれ。京都大学経済学部卒。2000年、毎日新聞社入社。青森支局、仙台支局を経て、05年より学芸部。著書「新左翼とロスジェネ」(集英社新書)。雑誌掲載記事に「実存か政策提言か」(現代の理論21号)、「森崎和江の世界」(環38号)「論壇は長く続く……」(朝日ジャーナル別冊1989-2009)、「『六八年』ブックガイド」(情況09年12月号)など。構成を手がけた本に姜尚中東京大教授と中島岳志北海道大准教授の対談「日本」、中島准教授の対談集「中島岳志的アジア対談」。
<書籍紹介>
『サブカルチャー戦争−−「セカイ系」から「世界内戦」へ』
限界小説研究会 編 四六判上製/416ページ/税込2625円/12月2日発売
9・11以降、アニメや映画などに描かれる戦争はどう変わったのか?
2000年代前半に隆盛したセカイ系作品の戦争像と2000年代後半以降の戦争像。9・11テロを境に大きく変化したサブカルチャーに描かれる戦争。現実の戦争や経済戦争に影響を受けたアニメ、映画、マンガなどの作品を中心に論じたサブカルチャー評論!
『パラノーマル・アクティビティ』と「夢遊病」
ニュースサイト「リアルライブ」に掲載されています。 http://bit.ly/exA3Fw
映画『パラノーマル・アクティビティ』の続編『パラノーマル・アクティビティ第2章/TOKYO NIGHT』が公開されている。イタリアではこの映画のテレビCMからして余りにも怖すぎると問題になったとか。僕も夜に一人で観ていて悲鳴をあげそうになった。タイトルを直訳すると「超常現象の活動」。就寝中に起きる怪奇現象の正体を暴く、ドキュメンタリー風のフィクション。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などと共に「モキュメンタリー」と呼ばれるジャンルに属するホラー映画である。
映画ではなく実際にも、寝ているはずの人が不可解な行動をする症状があり、それらは夜驚症や夢遊病と呼ばれたりする。寝たまま歩きまわったりする夢遊病は大人にもあるが、泣いたり叫んだりする夜驚症は子供に多い。僕も一時期はそれに悩まされた。といっても本人は状況を把握できていないので、困っていたのは家族の側だった。
とはいえ自分で覚えているものもあり、家族から聞かされたもの、その両方がある。「金縛り」は身体が動けなくなる現象だが、夜驚症で意識がある場合は「金縛り」に似ている。ただし動けないのではなく、身体が勝手に動いてしまう。自由が利かないという意味では「金縛り」と同じである。しかも動ける分、何をしでかすか分からないから、やっかいだ。
小学校高学年の頃、深夜になると奇声をあげて飛び起き、外に出ようとする。いつも深夜1時ちょうどだったそうである。従姉が遊びに来ていて「こういうときは名前や年齢や住所を聞くと正気を取り戻す」というので試してみたが、名前を聞いても年齢を聞いても住所を聞いても、自分の名前しか名乗らない。「どうしてキン肉マンは実在しないの?」といった意味不明の質問をすることもあったらしい。本気でキン肉マンが実在すると思っていたわけではないから、自分でも不思議だ。
実は来る日も来る日も同じ夢を繰り返し視ていた。滝に打たれ修行する白装束の女性や、高い塔に幽閉された髭もじゃの老人。人類の歴史を表す時計には針がひとつしかない。その針が再びゼロを示す前に何とかしなくてはならない。目を開けているから、そんな夢の光景と目の前の現実がオーヴァーラップする。家族が話しかけているのも分かるが、自由に動くことができない。
30分もすれば元に戻るが、それが4日も続いたので、お寺に相談にいった。お祓いをしてもらい「何か変わったことはないか?」と問われ調べてみると、祖母が「幸福になる印鑑」のようなものを購入していたことがわかった。それを処分すると、すぐに治ってしまった。その後、誰にも気づかれずに本当に外に出てしまっていて、道路の真ん中にパジャマ姿に裸足で立っていることに気付いて、家に戻ったこともある。
低学年の頃にも似たようなことはあった。高熱にうなされていて、天井が近づいてくる。上に連れて行かれぬようにと布団から出て部屋のすみに移動。壁のほうを向いて膝を抱えて耐えていたら、同じ部屋で寝ていた妹が目を覚まし、異常に気付いた。「お兄ちゃん、どうしてそんな所に座ってるの?」すると僕はこう答えたそうである。「ここは病人の座るところだ!」(工藤伸一)
月のウサギはヒソウサギ!?
ニュースサイト「リアルライブ」に掲載されています。 http://bit.ly/h6wOVU
※記事中「ケイ素」は「リン」の誤りです。訂正してお詫び申し上げます。
ET(地球外生命体)に関するNASA(アメリカ航空宇宙局)の会見が、日本時間11月3日(金)午前4時に行われた。事前の会見告知を受け、ネット掲示板やSNSでは「ついに宇宙人を発見したのか!?」と大騒ぎになっていたが、発表された内容はそういうものではなかった。
生物の常識を覆す細菌が地球上で見つかったため、地球外の星に生命体が存在する可能性が広がったということらしい。この微生物は、遺伝子(DNA)を構成する必須要素と思われていたリンのかわりに、通常は生物を死に至らしめるヒ素を使って生きることができる。こんなケースが可能であるからには、異星人が存在する条件として地球と似た環境を前提にする必要はないというわけだ。
そりゃあ広い宇宙のどこかには異星人が住んでいるだろうとは、素人目にも考え付く。けれど今回ネット配信された会見で、NASA研究員の発言「月にも生物がいるかもしれない」という部分があり、僕はそれが非常に気になった。遠く離れた場所ではなく月に生物がいるとしたら、これは大変なことだ。40年も昔に月面着陸は成功しているのだから、今すぐにでもコンタクトがとれてしまう。とはいえ月の周辺には既に多くの人工衛星も飛んでいるというのに、月の調査に進展がないのは不思議でもある。
「月の住人」で最も有名なのは「かぐや姫」だろう。1987年(昭和62年)に公開された星新一原作/市川崑監督の映画『竹取物語』で「かぐや姫」を迎えに来たのは、宇宙船だった。宇宙船のような未確認飛行物体(UFO)が発見されることは多いが、それがどこからきているのかは分かっていない。それが月からなのであれば、知的生命体が今も住んでいることになる。もともと人類は月に住んでいて、そこから地球に移住したのではないかなんて話も、どこかで読んだ気がする。
日本には「月にウサギが住んでいる」なんて話も昔からある。それはリンのかわりにヒ素を摂取して生きる「ヒソウサギ」なのだろうか。だとすれば今回の発表は、月に隠された秘密を公表する前置きなのかもしれない。そして来年あたり「ヒソウサギ」の全貌が公開されるのではないかと睨んでいる。だって来年2011年はウサギ年だから。(工藤伸一)
サイファーが11都市で開催 谷川俊太郎さんも
ニュースサイト「リアルライブ」に掲載されています。 http://bit.ly/h0SXLN
詩の朗読会「サイファー」が12月10日(金)に日本10都市と中国西安で同時開催される。代々木公園の東京サイファーには、谷川俊太郎さんも参加予定。主催者の佐藤雄一さんは、2007年に第45回現代詩手帳賞(思潮社)を受賞した詩人で、芸術評論誌『ユリイカ』(青土社)などで活躍する論客でもある。
イベント名の「サイファー」とは、もともとアメリカのラッパーがライムのバイブスを競うべく、自然発生的に発生する集団を指す。ライムとは語呂合わせなどを重ねつつ即興で言葉を紡ぐことで、バイブスはノリや気分のこと。ヒップホップ音楽にも精通する佐藤さんが、現代詩とヒップホップの融合を目指して昨年から始めたイベントである。
詩を吟じながら各地を遊説する「吟遊詩人」は、印刷技術のなかった古代ギリシア時代から続くとされ、今は「ポエトリー・リーディング」とも呼ばれる詩の朗読は、伝統的な表現形式でもある。今の日本にもそういうものがあることを僕が知ったのは、1989年(平成元年)1月23日に放送されたNHKのテレビ番組『ETV8 詩人たちのコンサート〜自作朗読の世界〜』を観たのが最初だった。蜷川幸雄さんが演出を手掛けたイベントを収録したもので、そこにも谷川さんが出ていた。
1997年にはトーナメント形式の朗読バトル「詩のボクシング」が始まり、『詩人たちのコンサート』にも出演していたねじめ正一さんが初代チャンプに。谷川俊太郎さんが2代目で、その後は平田俊子さんや島田雅彦さんが続いた。「詩のボクシング」は今も全国規模で続いており、谷川さんも精力的に単独ライヴを続けてきた。
2000年にはポエトリー・リーディング絡みの出来事が幾つかあった。朗読会を定期的に行う店「Ben's Cafe」(東京都新宿区高田馬場1-29-21)が本の情報誌『ダ・ヴィンチ』で紹介され、それを観に行ったのが僕の朗読会初体験だった。また2000 年2月発売のサブカル誌『クイックジャパン』vol.29の巻頭特集は「少女詩人・蛍」で、蛍さんのイベントは超満員になっていたである。更に2000年 9月3日には、さいとういんこさんらによる野外イベント「ウエノポエトリカンジャム」(略称:UPJ)が上野恩賜公園で開催された。
2002年に2ちゃんねる「ポエム、詩@2ch掲示板」に常駐していたハンドルネーム「都立家政」こと馬野幹さんが主催した朗読会は『AERA』や『読売ウィークリー』などでも紹介された。高円寺・無力無善寺などで彼の関わるイベントに僕も何度か出演したことがある。更に馬野さんは「上野ポエトリカンジャム3」の代表を務め、ソニーミュージックから朗読によるCDデビューを果たした本田まさゆきさんや「絶叫短歌コンサート」でも有名な歌人・福島泰樹さんら80名が出場し、1,400 人の観客を動員。
昨年6月には「UPJ4」も行われ、今度の東京サイファーのゲスト「なのるなもない」さんも出場していた。また同じ月には「現代詩手帖創刊50周年祭:これからの詩どうなる」という催しがあり、そこでも朗読を含むプログラムがなされたそうである。
このように様々な形で続いてきたポエトリー・リーディングの歴史に、今回の大規模サイファーが連なることによって、21世紀の詩の復権を促す、新たなバイブスが産まれることを期待したい。以下、11都市サイファーの概要を添付するが、注意事項など詳細については公式サイトにてご確認を。(工藤伸一)
■サイファー公式サイト「CAMPCYPHER」
http://d.hatena.ne.jp/CAMPCYPHER/
■東京サイファー
【日時】12月10日(金)19:00〜22:00
【場所】代々木公園 中央広場時計台付近(雨天時は同公園の渋谷門、大雨・洪水・雷「警報」がでた場合「中止」)
【最寄り駅】JR原宿千代田線代々木公園or明治神宮前。
18:15、19:15、20:15に原宿駅表参道口にきていただければ目的地まで誘導。「BEC」と書かれた紙を持っています。
【主催】佐藤雄一(TwitterID:@yy_sato)
【ゲスト】谷川俊太郎、志人(降神)、なのるなもない(降神)。
【料金】無料(ペン必須)
【ルール】だれでも参加可能。ラップ、自由詩、俳句、短歌、戯曲、小説なんでもあり。ゲスト以外は予選あり。
■中国西安サイファー
12月10日午後四時(日本時間5時)
六人のメンバーは西安興慶宮公園に阿部仲麻呂の記念碑前で集合。記念碑に李白の追悼詩が刻まれている。
主宰:伊沙(長安詩歌節http://p.tl/6Whr)
原文:12月10日下午四点,六位同仁到西安兴庆宫公园阿倍仲麻吕纪念碑前集合并拜谒,此碑身上书李白著名悼诗
■仙台サイファー
12月10日(金)19時30分スタート(朗読希望者は19時集合)
主宰:一方井亜稀
場所:純喫茶 星港夜(シンガポールナイト) 仙台市青葉区上杉1-12-1
入場無料(ワンドリンクオーダーお願いします) ペンご持参ください。
ゲスト:和合亮一氏
※満杯時(20名以上)入場を制限させていただきます。
■岡山サイファー
世界同時開催Bottle/Exercise/Cypher vol.5岡山会場
「にっぽんいちのゆるサイファー」
にちじ:2010年12月10日 だいたい19:30ごろから
ばしょ:D-mediaCreations(http://www.d-mc.jp/)
事務所内JR岡山駅から路面電車東山ゆき乗車、東山電停下車徒歩5分。
しゅさい:石原ユキオついったー:@yukioi めーる:ishiharayukio@gmail.com
【USTREAM】http://www.ustream.tv/channel/yuru-cypher
■京都サイファー
時間:12月10日(金)20時スタート
主催:清野雅巳
場所:清野宅
問合せ先:tseliotjp@yahoo.co.jp
ustアカウント:kyoto_k
■名古屋サイファー
時間:12月10日(金)20時スタート
主催:鈴木陽一レモン
場所:金山総合駅南口ロータリー
問合せ先:lemon_ys@hotmail.com.
■広島サイファー
時間:12月10日13時半
場所:アストラムライン「不動院」改札集合
■福岡サイファー
主催:福岡サイファー事務局 代表:松本秀文 共催:ドネルモ
日時:12月10日(金) 19:30〜20:30(19:00開場)
会場:冷泉荘読書室・A棟21号室
〒812-0026 福岡県福岡市博多区上川端9-35
参加費:入場無料
定員:10名
【申込・問合せ先】sokudotarou@yahoo.co.jp(福岡サイファー事務局 担当:松本)
詳細のURLはこちらです。http://donnerlemot.com/2010/11/30000835.html
■大阪サイファー
日時:12月10日 19時30分〜(開場19時〜)
場所:Bar rest (大阪市中央区難波4-7-9 南進会館ビル2F
(新歌舞伎座跡の裏通り、なんば楽座内。なんばウォークB5出口から地上へ、1分)
料金:無料(サイファー時のみ・持ち込み不可)
定員:最大9名(店のキャパシティにより。かなり詰めていただくかと思います。基本7名です)
その他:参加者の方は当日15時までに参加表明お願いいたします(定員の関係)。
ご連絡なしの当日参加もだいじょうぶですがその際のお席の保証はできかねます。
■札幌サイファー「古本とビール アダノンキ」
主宰:書肆吉成(http://diary.camenosima.com/)
060-0061札幌市中央区南1条西6丁目 第2三谷ビル2F
(地下鉄南北線大通り駅出て電車通りを西へ、東急ハンズの2軒西隣北向き)
時間は16:00から30分から1時間程度と考えております。
■三重サイファー
時間:12月10日(金)19時〜20時スタート
主催:今唯ケンタロウ
場所:四日市市(屋内の場合)/鈴鹿市(屋外の場合)
死の教育はどうあるべきか?(2)子供の自殺
ニュースサイト「リアルライブ」に掲載されています。 http://bit.ly/icWEX1
小学校の教師が児童に出した不適切クイズを引き合いに「死の教育」の必要性について書いた続きである。前回の内容に関してmixi上に多くのコメントが寄せられていて、補足すべきことがあるように感じた。少しでも疑問を解消できれば幸いである。
前回なぜ「殺人クイズ」から「子供の自殺」に話が転じたかと言うと、自殺も殺人であり、自分の死は他人から見れば他人の死だからである。子供の自殺だけでなく、子供の殺人も時おり発生している。義務教育は読み書きだけ教えればいいわけではない。よりよい集団行動のあり方は決して家庭だけで身に付けられるものではないから、何より他人との接し方を教える場でなくてはならない。だからイジメが存在する時点で義務教育は失敗している。しかも自殺や殺人にまで発展してしまうのが問題だ。ケンカ慣れしていないということもあるように思える。
先生が子供に尊敬されるために、畏怖心を植え付けようと怖い話をしたのかもしれない。東村アキコさんの育児漫画『ママはテンパリスト』にも「ごっちゃん」が言うことを聞くように「鬼」の話をして怖がらせるエピソードが出てくる。教育とは「型にはめること」だ。「ゆとり教育」は「個性尊重教育」とも言われるが、個性は教育からはみだしたところに芽生える。この「ゆとり教育」の余波は大学教育にも影響を及ぼしているだろう。ゆとり教育を受けた子供が既に教師になっている。大学の一般教養課程で履修する哲学と、現実における道徳がつながっていないことも問題だ。
学校は読み書き計算を教える場所である以前に、集団行動を教える場だ。それは家庭では教えることができない。イジメっ子の名前を遺書に書いて命を断つ子供は、死なないことにはそれを親にも話せなかったということになり、親子の信頼関係にも問題がある。イジメも自殺も共に悪いことだ。けれど未成熟な子供にその全責任を負わせることはできない。学校と親それぞれの責任だ。読み書き計算は家や塾でも学習できる。試験は学校で受けねばならないが、できるだけ人間関係を学べるようにしてほしい。
ところが親や教師の側にも心を病んでいたり自殺する者もあるから、子供にまで気が回らないのかもしれない。しかしそんな時代だからこそ、自分たちより非力な子供が生きるのは更に過酷であることを、気にとめておく必要があるだろう。(工藤伸一)
インタラクティヴ・イノベーション〜価値交換装置としてのエログロナンセンス
・批評誌『新文学03 革命×ネット×二十一世紀文化のエグいコンテンツ』寄稿コラム(4,000字)
本稿はメルマガ『新大学01ー03』所収の三つの論考(五七,〇〇〇字)を再構成したもの。『新文学02』では「ゼロ年代のネットサービス」を取り上げたが、その補完としてネット内外に渦巻く「エログロナンセンス」を題材にしている。興味のある方はぜひ原版も参照されたい。
なお本誌特集「このコンテンツがエグい!」はこれらの考察を重ねてきた僕の提案による。「エグい」は70年代の流行語で古めかしい印象もあるが、特集内『DEATH NOTE』の項目でも触れている漫画『バクマン。』に登場する漫画家コンビの作風を示す言葉。10月からテレビアニメも始まっており、タイムリーなキーワードに思える。
一「萌えロティック・性くノフィリア〜アクトロイドは無料動画の夢をみるか?」
「萌え」の語源は植物が芽吹く様。生と性が内包された新緑の匂いは精液に似ている。『古事記』や『日本書紀』では神の身体の一部や装飾品、所持品が変化して新たな神が産まれる。無性生殖やシミュラークルに近い。オリジナルの権威が失墜した今、神さえも宗教の専売特許ではいられない。我々は個別の神を心の中に描いており人の数だけ神が存在する。
神のように非人間的なる存在こそが人間の永続性を保証するのだと考えれば、架空や虚像も含むキャラクターへの愛情は距離感あってこそ強まり、グッズ購入やN次創作といったフェティッシュな方法によって充足される。フェチはエロの不可欠要素でもあり、萌えとエロは不可分との意味を込め「萌えロティシズム」という呼称を提唱したい。
テクノロジーの普及はエロに牽引されてきた側面も大きい。その意味も込めて、テクノロジー恐怖症を示すテクノフォビアの対義語テクノフィリアに性を関連付け「性くノフィリア」と名付けてみた。ネットにおける例として、欧米で流行したコミュニケーションツール『セカンドライフ』はアバターを自作できる特徴を持つことから、セクシャルなポーズのヴァリエーションを付加させて事に及ぶ遊び者が増え、風俗店まで登場している。
日本ではフィギュアやガレージキット、ダッチワイフの発展形リアルドールに精緻な技術が投入され、エロ目的ではないもののキャンギャル風の外観を持つガイド用ロボ「アクトロイド」も登場。彼女は必要最低限の言動しか出来ないが、その発展系「HRP-4C未夢(ミーム)」は歩行やダンスも可能。日本人女性の平均顔を採用し全関節可動型でありながら身長一五八センチ体重四三キロで、性くノフィリア的な執念が込められているようにも思える。
人間の顔を立体的に見せるシェードなる化粧技法は光源と関係なく影が続き、目の前にいても遠近感がなく現実感が失われる。性別も年齢もなく死ぬことすらない存在は神の領域だ。人が死に写真や映像だけが残るのは二次元化と同義ではないか。人ならざる人に似た者とは、思い出の中にのみ生きる死者や、想像の中だけに登場する神や悪魔だけではなく人形や二次元キャラも含む。
我々は神のシミュラークルを所有し世界と一体化せずに生きられない。現実を模倣するフィクションと、フィクショナルな現実の区別が曖昧になりつつある不確かな毎日に脅かされる存在論的危機は、死と紙一重のエクスタシー=全体性との融合=宇宙意志との合一によって回避される。
二「デスハック・ソリューション〜死と戯れ生を遣り過ごすグロテクスな方便」
グロテクスとは臓物や汚物や怨恨といったネガティブな側面が衆知に晒される状況。それが嫌われるのは怪我や汚染による命の危険を感じさせる危機管理力の作用。巷にあふれるグロ表現は能力を高めるための予防接種ではないか。病気も事故も殺人も普遍的な出来事に過ぎない。
現実あるいは空想における加害者/被害者と、明日を見通せない自分自身の置かれた環境は、紙一重である。技術や発想によって作業効率を脅威的に高められるエンジニアはハッカーと呼ばれる。その技能を日常に応用する「ライフハック」の一環として、グロとの有益な関わり方を模索し、過酷な現実を生き抜くソリューション=解決策を「デスハック」と呼びたい。
生とは動くことそのものであり、あらゆる表現は生と死に分類することが出来る。ライヴ表現は今まさに生きている表現であり、過去に表現された映画・レコード・書籍・絵画は死んでいる。だから録音録画を視聴する際に「再生」と呼ぶ。あるいは死んでいるとも生きているとも言えるゾンビ。ライヴも表出された傍から次々と死んでいく。
けれど生きる事が動くことであるからには、これを死と呼んでいいものか迷うところではある。この世のあらゆる現象は生と死を行ったり来たりしながら明滅するものなのかもしれない。映画のゾンビは死んでいるのに動く。我々は現実に死んでいるはずのものが生きている様を知っている。言葉は過去の誰かの脳内で息づいていた精神の欠片だ。また葬儀とは遺された人間が故人の死を受け入れる儀式。そういう意味では葬式こそがデスハックの最たるものである。
死とは全体に溶け込み透明な存在になること。亡霊や妖怪、鬼神の類は空気のように有るようで無く無いようで有る。景色の一部と化した路上のホームレスや詩集を売るため駅前に立ち続ける女性に横浜メリー。彼らは生きながら神霊化している。人の遺体は抜け殻に過ぎないが、人の面影がある限り我々はそれを人と認識する。
人であり人でないものは人智を超えた存在感を保つが故に畏怖される。即ち人は死ぬ事によって人智を超えた鬼神の類に連なる事が出来るのである。とはいえ形而上の存在としての魂それ自体と、魂の脱け殻は別種のもの。京極夏彦が説明する妖怪研究においても、魂が表徴化する幽霊と死体に別の魂が宿る現象は別の妖怪として区別されている。
「綺麗は汚い、汚いは綺麗」シェイクスピアの『マクベス』で三人の魔女は謡う。『アバター』における異星人がストーリーが進むにつれ美しく感じられることは美意識が後天的によって作られた幻想でしかない事を証明している。言葉は世界を表現するものではなく、言葉によって世界が作られる。
そして言葉とは文字や音声それ自体ではなく、脳内で再生される文字や音声のイメージであり、それが曖昧な世界の事象に対するイメージと重なって成立する。つまり言葉によって作られる世界とはイメージの世界であり、イメージなくして人間は世界を理解する事が出来ない。そのイメージの世界にフィクション/ノンフィクションの区別はない。だから我々にとってのリアリティもそれが現実か否かとは別次元の問題として成立している。
気に入らない人間に頭を下げて良い暮らしの出来る現実と、気に入らない奴をメッタ刺しにして死刑になる虚構。いずれもグロテスクだがベクトルが違う。ありえなかった過去の分岐点やこれから先の未来に待ち構えている可能世界というのも虚構であり、そして死もまた。有限の時間を生きている限り、生きる事は死に近づくことである。現実は虚構へ向かう。
三「南無センス/異能センス〜無意味の意味を考えさせるネットコンテンツ」
ニコ動「妹が作った痛いRPG」シリーズの見た目はゲーム的だが、セオリーを無視した別種のエンタメに仕上がっている。ゲームのようでゲームではない動画には他に『ゆめにっき』という人気作も。「ナンセンス=センスが無い」「センス=意味」を指す。仏教における「南無」は帰依すること。そしてNUMはExcelにおける数式エラー。宗教的価値を持つ南無が科学上では無価値なエラーになってしまう。
「Nonsense」と「Innocence」にはスペル違いで「センス」の語が。「Inno」も「無い」の意。南無同様に漢字を宛て「異能センス」。異能は痛い異能設定を指す「邪気眼」などラノベ頻出ワード。その無邪気さを「聖なる白痴」の系譜に連なるものとして肯定も出来る。ゲームは遊びだが、ハンドルの遊びは空転部分を指す。通常の遊びも基点間に位置すると思われるが宇宙に基点は存在するか。
大人にとってそれは神や常識。だが赤子は自らが唯一絶対の基点であり、無神論とは産まれたままの人間に備わった無垢の魂の原型だろう。異能センスにとって世界は自分のものであり、南無センスにとっての世界は他者=神や公共のもの。異能は南無に抑圧されがちだが、異能が南無の信仰の対象となったりもする。
午前四時に「なるほど四時じゃねーの」と自動投稿できるTwitterアプリがある。「深夜になってしまったことよ」という粋な洒落に思えるが、管理者が代理操作を悪用し「お気に入り」ボタンを押したことで、無意味な遊びが一瞬にして悪意に堕落。九一一テロに際しドーキンスが感じた「宗教は有害なナンセンス」との認識にも似る。彼は宗教などウィルスのように伝播する情報を「ミーム」と呼んだが、教育や法律も幻想に基づくミームである。
ミームに漢字を宛て「味意無」とすると逆は「無意味」。無意味なものを意味づける南無と、意味を無意味化する異能。既存の価値体系に南無することによって心の安定は保たれるかわりに本来の自分は隠蔽される。多くの者が社会に組み込まれるために捨てた異能センスを持ち続けられる異能者は意味の無意味性を暴く可能性を秘めている反面、無垢ゆえに遺伝子の利己性に逆らえない。両者が補完しあうことによって世界の均衡は保たれてきた。
以上の考察から、エログロナンセンスの相互作用(インタラクション)によって、技術革新(イノベーション)がもたらされるのではないかとの期待を込めて、本稿のタイトルを名付けた。既存技術を無力化するほど破壊力のある発明を「破壊的技術革新(ディスラプティヴ・イノベーション)」という。秩序を乱す爆発的な先進性は、一見粗野な人間性の奥底にこそ潜んでいるように思えてならない。(了)
松平耕一編(主催者ブログ:文芸空間)
価格 ¥800
単行本:A5版、230ページ
出版社:文芸空間社(バックナンバー通販:文芸空間社購買部 )
発売日:2010/12/05
ネット通販:とらのあなWebSite
店舗販売:新宿 模索舎、中野タコシェほか
『新文学03 革命×ネット×二十一世紀文化のエグいコンテンツ』
松平耕一編/¥800/A5版/230P/文芸空間社(2010/12/05)
「東浩紀のゼロアカ道場」出身のライトテロル系批評誌第三号!
九〇年代、資本主義の最終的勝利が喧伝され「歴史が終わった」と称された。そして外部なきゼロ年代に、電撃的に到来したインターネットのライトテロリストたち。
彼らが二十一世紀文化のエグいコンテンツのなかに見出すのは、しょぼい現実か、アーキテクチャに管理された動物化か、それとも「革命」への決断か? ネットカルチャーとストリートカルチャーの交錯した時空間から、パフォーマティブな生の祭りが噴出し、新たな歴史が隆起する!
アクセスせよ! これが一〇年代新文学のグローバルスタンダードだ!
執筆者:赤木智弘、章、秋田紀亜、hmuraoka、sk-44、esehara、海老原豊、工藤伸一、桜澤哲舟、死に舞、シノハラユウキ、白石昇、杉田俊介、鈴木真吾、谷口一平、谷口哲郎、、田村修吾、千坂恭二、T-T、中川康雄、中西B、negative-naive、noir_k、ハンギ、ひ。、昼間たかし、広田有香、藤田直哉、藤田直哉二世、踏足いさみ、古澤克大、ぺぺ長谷川、辺見九郎、北守、松平耕一、村上哲也、山本桜子、渡邊利道
【第一章 特集 このコンテンツがエグい!――二十一世紀文化の七二選】
・一 サブカルチャーの二八選
・ニ ネットカルチャーの一七選
・三 ハイカルチャーの二七選
・北守「『ゼロ想』への葬送――あるいはテンプレだらけの宇野常寛批判」
・死に舞「ゼロ年代のロック音楽五選――ロックはずっと戦っていた!」
・村上哲也「笑いとメタファー、キャッチャーとピッチャー」
・章「らぶげっちゅ。」
【第二章 ネットカルチャー論集】
・海老原豊「市場×ケータイ=若者論」
・辺見九郎「決断主義からリベラル・アイロニズムへ」
・鈴木真吾「あの頃、テキストサイトブームと」
・工藤伸一「インタラクティヴ・イノベーション」
・藤田直哉2世「「東浩紀のゼロアカ道場」を2年後から振り返る」
・esehara「Twitter文芸2」
・藤田直哉、シノハラユウキ、塚田憲史、杉田俊介「2ちゃん的思考形式の暴力と倫理」
・「タイ国美少女ゲーム『Re Angel』スタッフインタビュー」
・赤木智弘×昼間たかし「ネットコミュニティの分散化」
【第三章 「革命」をめぐって】
・広田有香「「麻生邸国賠」と街頭表現規制問題」
・藤田直哉、古澤克大「身体のテロルと情報のテロル――国家と革命の倫理」
・中川康雄「アナキズムと生態系の想像力」
・中川康雄、古澤克大、北守、中西B「ニート×表現規制×南京大虐殺」
・白石昇「多国籍擬似家族自動生成過程」
・ぺぺ長谷川、踏足いさみ、中川康雄「だめ連と動物化する二十一世紀」
・千坂恭二ロングインタビュー「革命戦争としての新左翼・ファシズム・ホロコースト」
・山本桜子「うさぎプロジェクト」
☆取り扱い店舗
◎東京:紀伊國屋書店新宿本店/模索舎/タコシェ/オリオン書房ノルテ店
◎ジュンク堂書店:大宮ロフト店/大阪本店/千日前店
◎全国:とらのあな・通信販売もあります。
http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0010/25/20/040010252010.html
※文芸空間社購買部にてのネット販売、電子書籍の販売予定中。
※最新情報はツイッターID @matudairaにて
以上、文芸空間 http://literaryspace.blog101.fc2.com/ より転載。
以下、僕の執筆に関する補足です。
○小論『インタラクティヴ・イノベーション〜価値交換装置としてのエログロナンセンス』(4,000字)
・メルマガ『新大学01-03』所収の3つの論考(57,000字)を再構成したもの。
○「特集 このコンテンツがエグい!」のレビュー(400字×13本=計5,200字)
・01:小山ゆう『あずみ』『AZUMI』小学館ビッグコミックス・1994年〜
・02:Mondo Media「Happy Tree Friends」2000〜2003年
・03:ミリオン出版『実話ナックルズ』2001年〜
・04:佐藤健寿「X51.ORG」2002年〜
・05:村上かつら『サユリ1号』全5巻、小学館ビッグコミックスピリッツ、2002〜2003年
・06:谷川俊太郎『夜のミッキーマウス』新潮社、2003年
・07:ATLUS『真・女神転生III−NOCTURNE』2003年
・08:大場つぐみ/小畑健『DEATH NOTE』全13巻、集英社ジャンプコミックス、2003〜2006年
・09:真鍋昌平『闇金ウシジマくん』小学館ビッグコミックスピリッツ・2004年〜
・10:鬼頭莫宏『ぼくらの』全11巻、小学館IKKIコミックス、2004〜2009年
・11:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』集英社ジャンプコミックス・2005年〜2009年
・12:渡辺浩弐『iKill ィキル』講談社、2006年
・13:福満しげゆき『やっぱり心の旅だよ』青林工藝舎、2007年
※【追記】駕籠真太郎さんや蜈蚣Melibeさんの漫画など取り上げたいコンテンツはまだありましたが、他の執筆者によるレビューとコンテンツ作者が被る作品を避けたり、時間が足りなかったり忘れていたりということもあって、このようなラインナップになりました。
※【訂正とお詫び】『実話ナックルズ』のレビュー中に「村崎百郎は京極夏彦と高校の同級生」と書いてしまいましたが、正しくは「村崎百郎は京極夏彦と同じ高校の1学年先輩」です。申し訳ありません。『新文学03』の直後に発売された『村崎百郎の本』(アスペクト刊)の記述を読んで間違いに気付きましたが、時すでに遅し。ちなみにその高校とは倶知安高校で、僕の母校だったりもします。