「トラウマ」
いくつかの予兆はあった。最初軽いめまいがやって来た。そしてそれは断続的に、だんだん激しく間隔も徐々に短くなって行った。僕は吐き気を感じてその場にしゃがみ込んだ。何人かの通行人たちが何があったのかとこちらをチラチラと見ていたが、誰も助けようとはしなかった。こんなとき都会の冷たさがありがたかった。なぜならいくら説明したって彼らにはどのみち分からない事なのだ。過去の記憶の奔流が、醜い渦を巻き、僕を暗い海の底へと引きずり込もうとしているなどということが、どうして他人に理解出来ようか。母からの折檻、父が家に連れて来た知らない女性。母の悔しそうな、憎悪に満ちた表情。「あの男の子供」。母は自分が腹を痛めて生んだにも関わらず僕の事をそう呼んだ。とくに酒に逃げ込んだ深夜過ぎなどに。
僕は頭を抱え込む様にしてその場にしゃがみ込んだいた。遠い過去からの罵声から耳を塞ぐ様にして。その記憶の奔流をやり過ごし、再び歩き出すことが出来る様になるまでの間。しばらく僕はじっとそうしていた。過去に、特に幼少期に受けた心の傷が癒えるにはあまりにも多くの時間がかかるものなのだ。永遠にも思える様な長い時間が。