「空気」
僅かな沈黙ののちに彼は話始めた。
「お互いにとって悪い話では無いと思いますがね」
僕はしばらくの間黙っていた。お互いの間にある沈黙の重さを手に取って確かめるように、僕は前方の彼との間にある空間を見つめていた。
やがて僕も話始めた。
「確かに、おっしゃりたいことはよく分かります。1度社に戻って検討させて頂きます」
そして我々は握手をして別れた。僕は会議室を出るとエレベーターで1階に降り、待たせてあったタクシーに乗った。僕はタクシーの後部座席でネクタイを緩めながら、やれやれと思った。我々は日々、あのような公的な場において、時には親しい人との間でさえ、お互いの間に生まれる空気、行間の機微とも言える、言外に込められた相手の気持ちを察しあって生きている。今回のような大きな取引においては尚更、相手の示す数字やデータの裏の裏まで読み、相手の思惑、お互いの利益を最大化しようとする試みについて考えねばならない。そのために日々、神経を擦り減らし生きている。
僕はため息をついて窓の外を眺めた。そして鳥や虫たちの営みを眺めながら、社会的動物に生まれたことの宿命を、少しだけ恨めしく感じていた。