「鼓動」
生まれながらにして心臓の鼓動の回数は決まっていて、その規定回数に到達したとき、人は死に至る。初めてそう聞いたとき、僕がまず思ったのは、なるべく自分の心臓の鼓動をゆっくりとしたものにしなければならないということだった。緊張や激しい運動によって鼓動が速くなり、文字通り寿命を縮めるようなことはあってはならない、そう思い込んでいた。
彼女に恋していることに気がついたとき、僕の心臓の鼓動は高鳴っていたが、夏の羽虫が灯りに引き寄せられるように僕は彼女に近付きたいという想いに抗えなかった。そこに自分のこれから先どれほどあるか分からないような余命を気にしている余裕はなかった。
「あなたのその繊細なところも含めて全部好きよ」
付き合ってしばらくしてから、僕が自分が幼い頃から宿命的に抱えているその鼓動に対する強迫観念について話したとき、彼女はそう言ってくれた。
「でもね、それを気にして今この瞬間をあなたが楽しめないのだとしたら、それは哀しいことなのかも知れないわね」
そう言って彼女は手を伸ばして指先で僕の頬に触れた。確かに今この瞬間の胸の高鳴りを押し殺すことは僕には出来そうになかった。濃縮された時間は、時として長く続く平穏な時間にも増してかけがえの無いものになり得るのだということを、彼女との出会いを通して僕は知ることが出来たのだった。