「イルカ」
遠くの沖合でイルカが跳ねるのが見えた。空はあくまでくっきりと青く晴れ渡り、海は妥協の余地なく濃い藍色を湛えている。妻は船のデッキの柵に肘をつき、そんな光景を眺めていた。その姿も込みで絵になるな、僕は恋人時代の胸の高鳴りのようなものを再び感じた。
「よく晴れていて良かったね」
「ええ」
妻は嘘のような絶景を前に、控えめな微笑を返しただけだった。あるいは、生まれてくるはずだった命に想いを馳せているのかも知れない。少しでも気が紛れればと思い計画した旅行だったが、僕はときおり沈みがちになる妻の表情を目にしないわけにはいかなかった。
「体調はどう?」
「ありがとう、もうずいぶん平気。あとはそう、私自身の問題ね」
「時間をかけてゆっくりと気持ちを整理していこう。これは僕たち二人のことでもあるんだから」
「ええ、そうね…」
そのとき再びイルカが海面を飛び跳ねた。今度はずいぶん近くで、まるで水飛沫がこちらまで届くんじゃないかという距離だった。
「カメラを構えておくべきだったな」
僕は言った。
「あら、いいじゃない。大切なのは今、この光景を見られたことなんだから」
この旅行で初めて、妻がにっこりと笑った気がした。二人で前を向いて歩いて行こう、僕自身も少し前向きになれた気がした。