「海」
海という言葉を聞いてまず最初に浮かんで来るのは母親の記憶だ。母なる海というが、僕にとって母は海のように広く大きな存在だった。
僕は幼い頃海の近くの家で育った。心地よい浜風の吹き込む部屋で、優しい眼差しを向けてくれる母親のそばで無邪気な遊びに興じていたことを思い出す。船乗りだった父親は滅多に帰って来なかったが、母親と変わらぬ愛情を注いでくれた。「船乗りの愛情は海のように深い」というのが父親の口癖だった。突然の嵐に見舞われ、命を落とすまでは、ということだが。激しい嵐で船体はバラバラになり、今でも父らの遺体は引き上げられることなく深い海の底に眠っている。知らせを受けたあと母は一晩中泣き続けた。そして数日後、意を決したように泣くのを止め、それ以来女手一つでたくましく僕を育て上げた。
「素敵なご両親ね」
「そうだね」
「私も小さい頃、海のそばで暮らしたいと思っていたわ」
「いつか引っ越そう」
「ええ」
「さてと」
僕らは岬の先まで辿り着くと持ってきた紙包を取り出した。そして僕は風の向きを確かめると包みを広げて海の方にかざした。粉骨された母の骨は風を受けて宙に舞い、やがて沖の方へと飛ばされて行った。僕らはその様子をいつまでも眺めていた。海の底で待つ父のもとに、母が無事にたどり着くことを願って。