茂みの中 | shingo722のブログ

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 「茂みの中」
 
 「もともと身体を動かすのは好きな方でした」
 彼女は言った。彼女は私の会社のクライアントであり、仕事の話をするために訪れた喫茶店で雑談になったときにこの話が出た。
「そのとき私は仕事のストレスを抱えていたんです。まぁ今でもストレスが無いことはないけれど。(笑)当時は今より仕事も忙しくて少し過食気味になったんです。それでダイエットとストレス解消を兼ねてジョギングを始めました。時間的に夜しか走ることが出来なかったので、仕事が終わってから家の近所を20分から30分走ることにしました。」
 そこで彼女は紅茶をひと口すすった。
「最初のうち、とても良い調子に走ることが出来ました。ジョギングを始めてから、自分の身体がどれくらい運動することを求めていたのかが分かりました。最初の1週間で体重も500グラムほど落ちて仕事にも張り合いのようなものが生まれました」
「ふむ」
「それを過ぎたぐらいから、私は走っているときに違和感のようなものを感じるようになりました。」
 彼女は少し視線を落として言った。
「なんというか、誰かに見られているような…。ジョギングのコースで小さな公園を通るんですけど、いつもそこを通るときに誰かの視線を感じるんです。特に治安は悪くない地域だったんですが、時間も時間ですし気味が悪くて」
「でも生来の負けず嫌いもあって走るのをやめようとは思いませんでした。いつも視線を感じるのはその公園にある茂みのあたりからでした。それで私は意を決してその視線の正体を確かめてやることにしました」
「ご自分でですか?」
 私は驚いて言った。
「ええ。私はいつものようにジョギングに出るとき、高校のときに使っていたテニスのラケットを持参しました。護身のためにね。そしてその公園に差し掛かったとき、やはり茂みから視線を感じました。私は覚悟を決めて近づいていくと、その茂みの裏を覗き込みました」
 僕は息を詰めるようにして話の続きを待った。
「そこには1人の男が立っていました。背はそれほど高くない、私と同じ160センチ前後で中肉中背のごく普通の男です。私は固まったようにその場に立ち尽くしました。男は変質者といったような雰囲気ではありませんでした。服装も小綺麗で道端で寝ているような種類の人間にも見えませんでした。ただ…」
 彼女はそこで少し言葉を切った。
「わたしが気になったのは彼の目でした。とても人間のものとは思えない、かと言って怖いとかそういった印象でもない、なんというか、人間とは違う種類の存在のような目でした」
「幽霊ってこと?」
「いいえ、それとも違う、私霊感ってあまりなくて幽霊とかはそれまで1度も見たことが無かったんですけど、おそらくそれは幽霊では無かったと思う。それはちゃんとこの世に存在しているものだったんです。ただその目だけが、見ているとまるで別の次元に吸い込まれてしまいそうな異様な印象を私に与えていました」
「それで結局、どうしたんですか?」
「あるときふと、解き放たれたように私の身体は動くようになりました。そして私はすぐさま家に逃げ帰るとしっかりと戸締りをして、熱いお風呂にしばらく浸かりました。翌日にはもう、会社に休職願いを出していました」
 彼女はそこまで話してしまうと、ふぅと息をついて紅茶をまたひと口飲んだ。
「そのときの家も即日引っ越しました。さすがにもうその辺りに住む気にはなれませんでした。しばらくして会社に復帰すると、部署も異動になり、ずいぶん働きやすくなりました。もうストレスで食べ過ぎることもありません。少なくともそんなにしょっちゅうはね」
 彼女が笑い僕も笑った。
「でも今でも不思議に思うんです。一体あれは何だったんだろうって。ひょっとしてストレスが原因で見た幻覚なんじゃないかとも思いました」
「でもはっきり見たんでしょう?」
「ええ…。でも少なくともそれは“悪しきもの”では無かったと思う。でなければ今こうして私はピンピンしてませんから」
 彼女が明るく言ったので僕も「確かにね」と相槌を打った。
 しかし、仕事の話になってからも僕の頭の片隅からは、彼女の見た“何か”のことが離れなかった。それは今でも、彼女の走っていた公園に居続けているのだろうか?彼女の見た異様な目は、奇妙な存在感を放ちいつまでも僕の頭に残り続けた。