「カップ」
青春時代が駆け足に過ぎていくものだとすれば、老後は引き伸ばされた時間をゆったりと生きるようなものだと思う。もっとも、体感時間となると逆になるのだが。
定年後は夫婦2人の時間が増えたが、我々は比較的上手くやっている方だと思う。細々とした不満はお互い言い出すと尽きないのかも知れないが、大きな不満は無い。少なくとも私の方には。
今朝、珍しく些細なことで言い合いをした。会社勤めの頃には朝ケンカをしても、一日働くうちに気持ちがリセットされて、帰ってくる頃にはお互いケロッとしていたものだが、今は二人とも一日中家に居るのでそうはいかない。モヤモヤとした気持ちを抱えたまま私は散歩に行く事にした。
「散歩に行ってくるよ」
私が一応声を掛けてみると、
「行ってらっしゃい」
と、妻は飼っている犬の方に構いながらこちらを見もせず答えた。
散歩の途中、妻のお気に入りの洋菓子の店が目に留まった。一瞬通り過ぎてやろうかとも思ったが、結局妻の好きなケーキを選んで二人分買って帰った。
「ただいま」
と私がまた声を掛けると、
「お帰りなさい」
と、やはりこちらを見ずに妻が答えた。
「ケーキ、買ってきたよ」
「じゃあお茶でも淹れましょうか」
妻が奥で準備をする間、私は何となく落ち着かない気持ちで待っていた。
しばらくして妻がお茶の用意を持ってきたとき、見慣れないカップに目が留まった。少し考えて「あっ」と思った。それはいつだったかの結婚記念日に私がプレゼントしたペアのカップだった。わざわざ戸棚の奥から出して持ってきたのだろう。
妻は相変わらず黙って用意を続けていたが、彼女の気持ちは充分に伝わって来た。私は温かい気持ちでお茶を飲み、ケーキを食べ、ポツリ、ポツリと二人で話をした。
午後の時間はゆったりと過ぎて行く。明日の散歩は、妻も誘ってみようかと思う。