「時間」
ペンを握ったとき、確かなイメージはあった。それはまるでトレーシングペーパーの様に、原稿用紙に書くべき文章が浮かび上がり、あと僕はそれをなぞりさえすれば物語は形となって立ち上がるはずだった。しかし、いざ僕が書こうとするとそこにあったはずの文章は失われ、虚しく僕は固まってしまった。誰かがコインを投げるとパントマイムを披露する路上パフォーマーの様に、僕は帽子にコインが投げ入れられるチャリンという音を待ち続けた。しかし、誰も僕の方なんか見向きもしないようだった。
「実は長い間書けていないんだ」
僕は妻に告白した。
「机の前にじっと座っているだけで、時間は虚しく過ぎていく。まるで目の前を特急列車が通過するみたいに、僕だけがホームに取り残されたような気持ちなんだ」
妻はしばらく僕の顔を見つめたあと、こう言った。
「あなたにはもっと時間が必要なんだと思うわ」
「この上もっと?」
僕は肩をすくめて言った。
「時間ならこうしてる間にもどんどん過ぎていく。朝歯を磨いている間にも、食事をしている間にも、今こうして君と喋っている間にも、時は歩みを止める事なく進み続けている。」
「私と喋るのは時間の無駄?」
「そんなつもりで言ったんじゃない」
僕は言った。
「ただ、僕は自分が時代に取り残されていくように感じるんだ」
彼女はテーブル越しに僕の手を取った。
「焦らないで」
彼女は言った。
「こうしている間にも着実に、何かがあなたの中に積み上がっている。時間を味方につけるの」
僕は黙って頷いた。
「焦らず、着実に進んで行きなさい。時間があなたの味方でいる限り、物事は確実に良い方向に進んで行くわ。」
僕は目を瞑って彼女の言葉を聞いていた。それはまるで頭の奥の方に語りかけているようだった。
「あなたは必ず大きな事を成し遂げる。それまでゆっくりと待つの。あなたの中でそれが静かに積み上がっていくのを。ただ、待つの」