「命日」
頭の芯が痺れたように、ぼーっとしていた。僕は手探りで枕元の時計の位置を探り当てると目を凝らして時刻を確かめた。午前2時を少し過ぎたところだった。僕はもう1度眠ろうかどうしようか少し迷った末、あきらめて起きることにした。夜中に目が覚めてしまい、そのまま眠れずに朝を迎えることはよくあることだ。僕はキッチンに行き、栓を抜いたばかりの赤ワインを舐めるように飲みながら、読みかけの小説のページを開いた。コツコツという音に気が付いたのはその時だった。
コツコツという音はまるで僕の頭の奥から聞こえてくるようだった。僕は周りに目をやったが、音の正体は分からなかった。それは遠い過去から聞こえて来るようだった。僕は小説を閉じると、コップの底に残ったワインを飲み干して目を閉じた。何かが僕の意識を蹴った。今日はユタカの命日だった。
ユタカが事故で亡くなったのは、彼が8歳のときだった。小学校2年生にあがり学校にもずいぶん馴染んできた様子だった。その日は学校から帰って来たら一緒におじいちゃんの家に遊びに行く約束だった。しかし、いつまで経ってもユタカは帰って来なかった。その日妻は仕事が休みで家におり、学校まで迎えに行かなかった自分を彼女は責めた。
それからしばらくして、妻は食べたものを吐くようになった。無理して食べても、吐いてしまう。それが自責の念から来るものであることは明らかだった。僕は何度も彼女にユタカの死は事故であり、君には何の責任も無いということを説明し、心療内科にも連れて行ったが、駄目だった。僕たちは身の回りの物を整理し、ユタカに関する物をしまい込み、目に付かないようにした。彼が死んでから3年になる。子供はもう、作らなかった。
僕は寝室に行き、こちらに背中を向けて寝ている妻の姿を眺めた。もともと華奢だった身体は、痛々しいまでに痩せていた。僕は彼女のか細い肩を抱き寄せようとして、ふと彼女が何かを握りしめていることに気が付いた。それはユタカが小学校で付けていた名札だった。そして、事故のときも。しまい込んだ遺品の中から取り出して来たらしい。僕はさっきまでユタカの命日を忘れていたことに罪悪感を覚えた。忘れようと努めても、忘れられないと思っていた。僕は何とか妻の症状を回復させようと、ユタカの存在を記憶の押し入れにしまい込もうと躍起になっていたのだ。向き合わなければならない。ユタカの死を本当の意味で受け入れ、前を向くためにも、3人でこの局面を乗り越えなければならない。今にも折れそうなほど痩せ細った妻の身体を抱き寄せ、強くそう思った。