「小説家」
「小説家になろうと思うんだ」
僕がそう言うと彼女はたっぷり30秒ばかり黙り込んだ。ほとんど永遠のように感じられる30秒間だった。
「でも、誰もあなたの書いた文章なんか読みたがらないかも知れない」
「仕方がないんだ」
僕は言い訳するみたいに言った。
「確かに誰も僕が書いた文章なんて読みたがらないかも知れない。でも、自慢じゃないけど昔からそう生き方しか出来なかったんだ。誰も僕が描いた絵なんか眺めないし、僕が入れたコーヒーなんか飲まないし、僕が磨いたくつなんか履いたりしない」
「私は見てみたいわ、あなたが描いた絵を」
「君は何かを勘違いしているんだ。僕はそんなに器用なタイプじゃない」
「じゃあどうして小説が書けるなんて思ったの?」
「書けるんじゃない、書くしかないと思ったんだ」
「書くしかない?」
「他に選択肢がなかったんだ。人は皆自分の中に物語を持っている。ある人はその物語を会社員として生きることで語るし、ある人は教師として授業を通して生徒たちに語って聞かせる。画家だってそうだ。絵を描くということは物語を語ることでもあるんだ」
「あなたはそれを文章に移し替えることで物語るのね?」
僕は頷いた。
「あるいは上手く行くかも知れないし、行かないかも知れない。でも今の僕に出来ることは少なくともそれが全てだ。書くことによってのみ僕の物語を語ることが出来る。あるいは僕自身を語ることが出来る」
「やってみたらいいんじゃない?」
彼女は少し考えてから言った。
「聞かせて欲しいわ。私の知らない、あなたの物語を」
「やってみるよ。少なくとも今の僕に出来る全てのことをやり切る。それは約束する。」
「楽しみにしてるわ」
彼女はそう言って微笑んだ。
朝、彼女が仕事に出掛けたあと誰もいない家のキッチンテーブルに座り、ノートパソコンの画面を立ち上げ、まっさらな原稿を前にして僕は自分で淹れたコーヒーを飲んだ。少なくとも僕は僕の淹れたコーヒーを必要としていた。これから僕は語ろうと思う。僕自身の物語を。さて、何から話そうか。さて。