「オーケストラ」
コンサートホールは満員だった。まずまずの演奏が聞けて観客たちも満足していた。曲と曲との合間の休憩時間となり、人々はロビーに出てシャンパンのグラスを傾けたり、雑談に華を咲かせたりしていた。私はホールの椅子に深く腰掛けたままぼんやりとステージを眺めていた。先程まで音楽的最高潮を迎えていたステージには人の姿はなく、奇妙なぐらい静まり返っていた。
「○○さんですよね」
ふいに声を掛けられて我に返った。私の傍には見覚えのない女性が立っていた。
「あの、失礼ですが○○さんですよね」
女性は繰り返し言った。私の名前だった。
「はい、そうですが」
「よかった、人違いだったらどうしようと思って」
彼女はほっとしたように言った。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
「先日の先生の講演、聞かせて頂きました」
それで私は合点がいった。僕は大学の客員教授として、何度か講演会に招かれたことがある。ヨーロッパ地域における文学の歴史と、それが政治にあたえる影響というのがテーマだ。
「わたしもあの大学のOBとして講演を聞くことが出来たんです。とても感動的な内容でした」
「それはよかった。」
私は言った。そろそろ次の演奏が始まる時刻だった。
「実は手術をすることになったんです」
「失礼?」
「わたし今度手術を受けることになったんです。そのために入院しなければならないんですけど、その前に先生の講演が聞けて良かった」
私は何と言っていいか分からず曖昧に微笑んだ。
「もし無事に手術が成功したらまた講演を聞きに行かせてもらいますね」
彼女はまたニッコリと笑うと自分の席へと帰っていった。
再びオーケストラの演奏が始まってからも私は上手く演奏に集中することが出来なかった。もし無事に手術が成功したら、と彼女は言った。とするとかなり重たい病気で大きな手術なのかも知れない。私は彼女の笑顔や明るい喋り方を思い返した。とてもそんな重たい病気を抱えてるようには見えなかったが、努めてそう振る舞っていたのかも知れない。私は自分の講演が彼女を満足させられたことを喜んだ。自分なりに後悔のない仕事をしなければならない、そう思った。人生の幕はいつ降りるか分からないのだから。ステージではオーケストラが再び最高潮を迎えようとしていた。