母の背中 | shingo722のブログ

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 「母の背中」
 
 庭の物干しに洗濯物を干す母親の背中を覚えている。僕は縁側に腰掛けて、テキパキと洗濯物を次から次へと干して行く母親の姿を飽きもせず見つめていた。僕の母は熱心に家事をした。朝食の支度から掃除、洗濯に至るまで、常に家の中で休みなく働いていた。当時の僕は母親とは熱心に家事をする生き物であると思い込んでいた。だから大人になって周りの人間が「ウチのカミさんなんか全然家事しなくてさ」というのを聞いても、いまひとつピンと来なかった。少し不穏当な発言かも知れないが、女性というのは家庭に入ると自動的に熱心に家事をこなすモノだと思い込んでいたのだ。しかし、だからと言って家事を熱心にしない女性をとやかく言うつもりは全くない。僕の周りの男たちだって、ブツブツと奥さんの文句を言いながらも、まあ上手くやっているようだし、役割分担でバランス良く出来る事をやっていけば良いじゃないかと、僕は思う。皆んながそこそこ幸せならそれでいいじゃないか。
 今になって思えば、僕の母はその熱心さによって自分を支えていたのじゃないかと思う。次に僕が覚えている母親の背中は、夜中のキッチンテーブルで肩を震わせて泣いているところだった。僕はそのとき高校生だった。父親が出て行ったのはそれからすぐだった。会社の部下と不倫関係にあったらしい。その女が熱心に家事をする人だったかどうかはわからない。
 父親が出て行ってからというもの、まるで糸が切れたように母はまるで家事をしなくなった。僕も学校と受験勉強の合間に洗濯などを手伝ってはいたが、それでも追いつかず、家はゴミ屋敷の様になった。そんな環境が嫌で遠くの大学を選んで下宿暮らしをすることにした。本当は家事をしなくなって廃人のようになった母親をそれ以上見たくなかったのかも知れない。
 母が死んだのは僕が会社に入って4、5年経ってからだった。50歳を過ぎたばかりだったが、最後は老人と言ってもおかしくないような風貌だった。葬式で父と顔を合わせたが、ほとんど口はきかなかった。
「お父さんのこと、恨んでいるの?」
 彼女は聞いた。
「わからない」
 僕は答えた。
「でも、葬式で顔を合わせたときもそうだったけれど、不思議とそこまで憎しみは湧いてこなかったんだ。それは、父親が出て行ってから僕もそれなりに苦労はしたと思う。でもあの人はあの人で思うところもあったんだろうなって」
「どうしてそんなふうに思えるの?」
 彼女は本当に驚いたようだった。
「あなたには悪いけれど、それが私の父親だったら殺してしまいたいって思うわ、きっと。だって結局お母さんを壊してしまったのもお父さんが出て行ったせいなんでしょう?」
「まぁね。」
 僕は認めた。
「でも、母親の家事に対する熱心さは見ていて、ときとして息の詰まるようなところがあった。熱心であることによって何かを証明しようとしているような、でも当時父親が求めていたのはそれとはまた別のことで…」
 そこで僕は言葉を切った。
「よく分からない」
「あなたがもし結婚したら、何か奥さんに望むことはある?」
「僕が望むこと?」
 僕は少し考えた。
「何かを押し付け過ぎないことかな。どうしても譲れないことは別にして、ある程度相手の意思を尊重すること」
「ふうん。」
 彼女は言った。
「私が結婚相手に望むことはね…」
 そこで彼女は声のトーンを少し変えた。
「私の全てを受け入れることよ。」
 彼女の声はまるで呪文のように響いた。
「全てをとるか全てをとらないか。私にはそのどちらかしかないの。譲歩はない。そのかわり、私の全てを受け入れるなら、私もその人の全てを受け入れる。私が求めているのはそういう完全なものなの」
 僕は彼女の目を見た。まるで暗示をかけようとするように、彼女の声は頭の中に直接響いた。
「眠りなさい。」
 彼女は言った。同時に僕は強烈な眠気を感じた。
「全てが溶け合うような夢の中に。そこで私とあなたは完全にひとつになるの。」
 僕はそれに抗うことが出来なくなっていた。僕は過去と現在と現実と想像、そして僕と彼女が混じり合う夢の中へと引きずり込まれて行った。