「海岸線」
海岸線はずっと遠くまで続いていた。夜の海は昼間のそれとはがらりとその姿を変えていた。昼間の明るく澄んだ少女のような透明感は影を潜め、まるで憂いを帯びた成熟した女性のように物思いに沈んでいた。波の音だけが響いていた。
「本当に産んでもいいと思う?」
「子どものこと?」
「そう。」
「もちろん君さえよければ産めばいいさ。」
「あなたが父親になるのよ。」
彼女は僕の目を見て言った。
「その覚悟はある?」
僕は遠くの海に浮かぶ一隻の汽船を見ながら言った。
「覚悟なんてきっと後からついてくるさ。」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「君を深く愛しているからさ。」
彼女は再び僕の目を見た。彼女の瞳は昼間の海のように澄んで夜の海のように深かった。それから手を伸ばして僕の頬に触れた。
「本当はとても怖いの。」
「わかるよ。」
「母親になることが。だって私の母親は…。」
「君は君だよ。」
「そうね。それは分かっているの。たとえ自分が捨てられた子どもだったとしても、自分の子どもにはそんな思いはさせないつもりでいたもの。でもね、いざ自分が母親になるって思うと、どんどん怖くなってきたの。自分自身に流れる母親の血が、そして自分自身が。」
「僕がいるよ。」
「ありがとう。」
彼女は海を見ながら言った。
遠くの海では汽船の赤いライトが光っていた。僕はその赤い光を見つめながら、僕とその光の間にある海の深さを思った。本当に自分自身に父親になる資格があるのだろうか?そんな自問自答が幾度も頭を頭をよぎったが、そのたびに僕はその先にある赤い光に思いを馳せた。大丈夫、彼女とならやっていける。自分たちの家庭を築いていける。彼女が恵まれない少女時代を送ったなら自分たちの子どもを通してもう一度少女時代をやり直せばいい。そう自分に言い聞かせた。
僕たちは夜の海岸線をあても無く歩き続けた。遠くの海からは長い汽笛が聞こえいた。