「彼氏」
ごく現実的に考えるならば、僕はそのまま回れ右をして一目散に逃げ出すべきだった。しかし、彼女の前でそんな姿を晒す事は出来ない、これもまた現実的な考え方に思われた。
「謝れよ。」
僕は荒い息をしながら言った。
「彼女にぶつかっただろ。」
僕はまだ地面に尻餅をついたままの彼女を指差して言った。鼓動は今にも爆発しそうだったが、胸の奥は不思議と冷たかった。その大男はニヤリと笑ったかと思うと拳を振りかぶり、次の瞬間には僕の頬と頭と全身に衝撃が走り、首は捻れ、身体は弾け飛んだ。男の肩と胸の筋肉は隆起し、坊主頭が太陽の光を受けて鈍く光っていた。やがてその大男は倒れた僕の足元に唾を吐くと、くるりとその大きな背中を僕に向けて行ってしまった。痛みと後悔と悔しさと安堵感が僕の身体を占めていた。
「大丈夫?」
彼女はおずおずと尋ねた。
「まぁね。」
全然大丈夫じゃなかったけど、僕はなるべく涼しい顔で答えた。腫れた頬が熱を持ち始めていた。
「私の家に行きましょう。手当ての薬もあるから。」
僕は脚に上手く力が入らなかったが、なるべく何でもないようなふりをして歩いた。やれやれ、彼氏らしく振る舞うのも楽では無いのだ。