「電話の向こう」
朝の11時に電話が鳴った。
「もしもし。」
と電話の相手が言った。その声には聞き覚えがあった。
「もしもし。」
と僕は言った。
「元気?」
と電話の相手は聞いた。彼女と付き合っていたのはずいぶん昔のことだ。しばらく世間話をしたあと、
「私、結婚するの。」
そう彼女は唐突に言った。咄嗟になんと言えばいいのか分からなかったので、「そう。」とだけ答えた。会社の同僚らしく、親しく話をするようになったのは僕と別れてしばらく経ってからだという。
「さようなら。」
と、最後に彼女は言った。
「さようなら。」
と僕も言った。数秒の沈黙の後、彼女は電話を切った。回線の切れた通話口の向こうに彼女の口にされなかった言葉が漂っているようで、しばらく僕は電話を耳元から離さなかった。まるで本当に大事な言葉をその沈黙の中に探し求めるように、僕は耳を澄まし続けていた。