再現できなきゃ意味が無い 〜科学的とはどういう意味か | 日常の中の非日常

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タイトルを変えてみた。
仕事のことなんかも書いてみたり。

前に本屋で見かけて気になっていたものの、そのときは買わず。最近になって購入。

工学博士たる著者が『科学的』とはどういう状態を表すのか、科学的に考える思考力は発想力がないと、どのような問題が発生するのか、といったことを書いたもの。

僕自身も、工学修士を持っているので、科学的という考え方はそれなりに持っていると思っている。『科学的』ってのは一言で言うと『再現性があるかどうか』ということにつきる。

もう少し言うと、同じ条件下で誰が行っても同じ結果が得られるかどうか、というところがポイントで、それを満たさない限り科学的ではない、という判断になると考えている。

おおよそ、著者とは同じような考えだったな、と思う。まあ当たり前の話と言えばそうだ。理系学部で勉強をした人間にしてみれば、知らなきゃおかしいレベルだよなぁ、と思う。

そういう意味で、本書ではそれほど目新しい話があったわけじゃない。だけど改めて自分の日々の考えを見直すのには、とても有用だったと思う。

そもそも、文系と理系、と区別すること自体が、(著者も近しいことを書いているが)ナンセンスだと僕は思っている。人は誰も文系的な要素と理系的な要素を持っていて、どちらかと言うと強いほうがある「かもしれない」けど、おおよそは変わらなくて、どっちの勉強をしたか、どっちに興味を持ったか、というだけでしかないと思ってんだよね。

だから世の中の文系理系議論には、僕は興味ないし、どーでもいいじゃん、と思う。そんな所で自分自身を貶めなくてもいいよね、とも思うし。苦手、と思った時点で苦手になるからねぇ。

秀逸だったのは、最初の方に書かれていた以下の文章。

「文系には、数学や物理から逃避するという特徴(あるいは傾向)があるけれど、理系にはそういった特徴は顕著ではない。理系の人間は、特に国語や社会から逃避しているわけではない。ここを、文系の多くはたぶん誤解しているだろう」

これはそうだと思う。というか、サンプルが殆ど無いのであくまで僕自身のことで考えざるを得ないが、僕はまさにそうだった。正確には、国語も社会も得意だった。地理や漢字みたいに「覚えるしかない」ものは苦手だったけど、読解問題であるとか、個人的に好きだった歴史などは全然得意だった。そんなもんである。

それを文系(と自分を定義している)の人たちは、「お前らは文系学科が苦手、俺達は理系学科が苦手、おあいこでしょ」と平気でおっしゃいますが、じゃああなた方は理系と言われている人たちが理解している物理程度に古文を理解しているのでしょうかね、と質問もしたくなる。

おっと、話がそれてしまった。

ともあれ、本書は『文系と理系』と分けることの無意味さ、科学的に考えることの重要性、科学的に考える方法論、といったことがわかりやすく親切に書かれている。科学が苦手だ、数字は難しい、なんて考えている人は、ぜひ手にとって読んでみるべきだと思う。

と書いたが、そういう人はまず間違いなくタイトルで敬遠するんだよな。。もったいない。。

あ、そうそう、僕は誰かから「(血液型)何型に見える?」って質問されたら、必ず「A型」と答えます。それが当たる確率が一番高いのでね。性格から判定するとか、そんなもん不可能でしょ。


採点:4点(5点満点)
理解して限界を知ることと、最初から拒絶することは雲泥の差だ。