ベーシック・インカムのような労働なき所得再分配の限界 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

 本日は、望月夜様のブログ過去記事から不定期で投稿してくださいとのことです。ありがたや~。

 BIの限界とは? 非常に面白いので、ぜひともお読みいただきたいと、私(ヤン)は存じます。

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ベーシック・インカムのような労働なき所得再分配の限界

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「ベーシック・インカムか、Job Guaranteeか」というのはよく議論になるところである。
この二つには様々な点での違いがあるのだが、今回は、再分配の形式として、不労所得として分配するか(ベーシック・インカム)、労働を介して分配するか(Job Guarantee)の違いというところだけにフォーカスして議論してみよう。

端的に結論を述べておくと、労働無き所得の(再)分配というのが現実の社会制度で許容可能なのか、並びに社会制度として望ましいのかについて考察すると、双方の点においてやはり所得ではなく労働の分配の方が好ましいのではないかと考えている。

第一に、俗な観点ではあるが、やはり「働いてもいないのに金を貰うのか」という非難は、互酬が根本にある社会制度において、”自然な感情”であることは否定できず、(再)分配に際して、形式的であっても労働という形を取るのは、そうした社会制度の基礎的部分との整合性が取りやすい筈である。

少し話が逸れるかも知れないが、少し関係のある議論としては、安田洋祐氏の「市場で再分配が可能」という前提を疑えがある。
上記記事を短くまとめると、競争的な市場均衡は、生産-消費マッチングの数量を最小化してしまい、再分配がない場合、アンマッチによって不利益を被る主体の数が最大化してしまうという趣旨である。

ここでもし、『労働のような社会参加を通じて「互酬」という社会の根本原理にコミットしなければ分配が与えられない』といった規範が広範に共有されている場合は、効率的な市場均衡ではなく、安田氏が記事で紹介しているような、均衡から乖離し得るマッチングシステムの導入が相対的に好ましくなる。

第二に、そもそも互酬を根本規範とする社会自体が好ましいかどうか、というところも当然議論すべきところであろう。
この根本規範は、ベーシック・インカム的な再分配が最適水準になるのを明らかに妨害するわけだが、かといって、互酬という規範が、社会的、ないし「生態的」に望ましくない共有規範かというと、そうとも言えないのではないだろうか。

というのは、構成員が皆、虎視眈々とフリーライダーになるチャンスを伺っている社会より、互酬を共有規範として、社会からの恩恵を受ける前提として各人の社会貢献が求められる社会の方が、社会全体の生産力や成長性は明確に高まる筈だ。その意味で、フリーライダーを排除したい性向を根本的に否定するのは難しいと思われる。

互酬を根本規範とする社会の場合、適応的に互酬、ないし他者への貢献に対して何らかの正の効用(達成感であったり、名誉感であったり)を持つ人々も多くなるだろう。
逆に、そうした人々が、労働等の社会参加から「排除」されると、所得と同等に疎外感に苦しむことになる。これはいわゆる「関係の再分配」にも絡んでくる話だ。

となると、従来の社会構造、社会に通底してきた規範や、そうした社会や規範を形成してきた人類の生態それ自体とのシナジーを取るなら、ベーシック・インカムのような所得単体の保障よりも、Job Guarantee型の(少なくとも形式的には)労働を通じた分配の方が適合的ではないかと考えるわけである。

上記に加えて同時に考えているのは、「労働する」、「社会に貢献する」という尺度を大きく緩める必要があるのではないかということだ。
例えば、単に栄養を得て、生き長らえるということだけを本質的活動だとしてしまうと、その尺度で見た「本質的労働・生産」には、この世のほとんどの労働・生産が当てはまらないことになる。

例えば、プロスポーツ選手の中には途轍もない金額を稼ぐ人々も居るが、彼らの足元にも及ばない所得である各種ショップ店員の皆さんの方が、明らかに我々の実生活における「必要度」は高い。
とはいえ私は、「プロスポーツ選手は実質的に穀潰しだからプロスポーツを廃止しろ」なんてことを言いたいわけでは無く、 『社会に参加している』、『社会に貢献している』、『社会において(何らかの)生産を行っている』、という評価は、(よほど困窮した社会でもなければ)可能な限り広く取って、様々な形で労働・生産・所得が発生するような社会である方が良いではないか、と言いたいわけだ。

ここらへんの議論と関係があるのが以下二つの拙コラムである。
「脱市場、脱成長が齎す文化的退廃 その裏にある市場の本当の恐怖」
「イノベーション、分配、経済成長」

上記議論に対し、「科学技術の発展によって、労働が不要になる可能性についてはどうか」という意見もあるのだが、現実の推移を見る限り、科学技術による自動化が進行するより前に、労働待遇が低下するという形で、雇用がキープされるというのが実情だと思われる。
齊藤誠「不況を放置した方が長期生産は高まる」について+追補で引用したレン=ルイスの記事の通り、不況による失業圧力の増加の中で、労働集約化シフトが進み、イノベーション利用は停滞し、これらによって生産性成長は抑制された。

これはある種当然で、生産手段(資本)から人々が隔離された現代経済では、是が非でも雇用されなければ生きていくことが出来ない。このため、自動化のコストに勝てるよう、人々は自身の提示賃金や労働待遇を”自ら”引き下げていく。
こうして、自動化されるまでもなく、人が低賃金で雇えるようになってしまうのである。
ちょうど『イノベーションの本当の源は高賃金』とは全く逆のことが起きてしまうというわけだ。

こうした問題を解消するキーが再分配による労働供給の抑制なのだが、既に指摘したように、ベーシック・インカム型には社会的限界があり、したがって(公的)雇用創出という形を取るのが結局妥当なのではないか、と考えているわけである。
労働という名分のついていない再分配は、極めて小さく、不十分なものに終わってしまうのではないかという危惧があるのだ。


傍論になるが、上記の議論してて思ったのは、では「働けない人々」への社会的庇護の源泉はどこなのだろう?ということだ。

「基本的人権!」と言明するのは簡単だが、基本的人権は別に天から降ってくるものではないので(せいぜい天から降ってきたものという”ことにする”のが限界)、その根源まで迫りたいのである。
山極寿一氏著「「サル化」する人間社会 」によると人間社会は「えこひいき原理の家族」と「平等・互酬性原理の共同体」を両立させたものにあたるという。

つまり、病人や赤子といった「働けない人」への社会的補助は、家族的なえこひいき原理の中から出てきて、(平等・互酬性原理の)共同体の論理とのせめぎ合いの中で表出するものなのである。
プレーンな人間社会は、決して国家・社会レベルでの素朴な個人単位の再分配を保障してくれるものではなく、社会の論理と拮抗する別の論理(家族の論理)が拮抗することでようやく生まれるものなのだ。

逆に、家族的なえこひいき原理の力が薄れてくると、「サル社会」的な個人(個体)レベルのエゴが強くなって来る。
ともすれば、相模原事件も、個人のアトム化(原子化)が進む中での、一種の「サル化」現象の顕れだったのかもしれない。

とにかく、共同体的論理は、特に個人主義化が進行する中では、単純な所得再分配を否定しようとする方向に強い圧力を掛ける代物である。
そうした中でのベーシック・インカムは、(労働名目の雇用創出を通じた再分配に比して、)極めて弱弱しい、小さな規模に留まってしまう危険性が高くなる。

(了)


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